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有馬伯爵家 久留米藩主 その1

橋場本邸 3万坪

荻窪邸 土地1万5000坪 建物250坪


◆有馬頼咸 最後の藩主
1828-1881 文政11-明治14 53歳没
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■妻 有栖川宮韶仁親王の娘 韶子女王
1825-1913 文政08-大正02 88歳没


●側室の子 頼子 小松宮彰仁親王妃
●側室の子 千代 久我通久侯爵夫人
●側室の子 頼匡 次代当主
●側室の子 頼万 次々代当主
●側室の子 民子 加藤明実子爵夫人
●側室の子 納子 伊達宗陳侯爵夫人
●生母不明 頼之 有馬頼之子爵となる 丸亀藩主京極朗徹の娘藤子と結婚
●側室の子 頼多 有馬頼多男爵となる 結婚3回
米子→今園国映子爵の娘智子と離婚→菊亭修季侯爵の娘英子と結婚





◆有馬頼匡
1861-1918 文久01-大正07 57歳没





◆有馬頼万
1864-1927 元治06-昭和02 62歳没
先代頼匡の弟
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■前妻 岩倉具視の娘 恒子/寛子 離婚・森有礼子爵の後妻となる
1864- 元治01-
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■後妻 戸田忠友子爵の娘 豊子
1869- 明治02-
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●前妻の子 禎子  奥平昌恭伯爵夫人・昌恭の酒乱により別居
●前妻の子 頼寧  次代当主
●後妻の子 頼篤  安藤信昭子爵となる 閑院宮載仁親王の娘恭子女王と結婚
●後妻の子 定之介 松田正之男爵となる 蜂須賀正韶侯爵の娘笛子と結婚 
●後妻の子 久米子 稲田昌植男爵夫人
●後妻の子 敏四郎


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『横から見た華族物語』  昭和07年出版

先代の頼万氏は思い切り時代離れのした御大名気質で、
橋場の本邸の奥深く大勢の召使どもにかしずかれて祝着に存じ奉る式な生活をしていた。
外出ということは滅多にしない。たまに散歩にでも出るとなると、
三太夫や腰元どもが前後左右を取り囲むといった大がかりなもので、
当時有馬の殿様のお出ましと言われこの界隈の名物の一つに数えられていた


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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正08年04月13日

有馬頼寧の台詞

父頼万との間近頃ますます円滑にならざるにつき、自分より何事も直接には相談せず。
父が自分の妻貞子に対しては「貞子」と呼び捨てにせられるも、
弟安藤信昭の妻恭子に対しては「恭さん」と言われる。


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倉富日記 大正10年08月28日 

有馬伯爵家職員橋爪慎吾の台詞

頼万は妹が有馬豊昌に嫁する時支度料として1万円を遣す旨の書付を渡し、
その内2000円にて支度をなし残金8000円は有馬家に預かりあり。
また妹の二子に対し長子には1000円・次子には800円の学資を給する旨の書付を渡しあるが、
妹の死去したる時頼万の生母美代と弟頼之が家財を持ち去り、
贈与証書もいかがなしたるや不明なる旨有馬豊昌より申し出て、
今日にては誰もその事を知る者なく要するに事実不明なり。


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倉富日記 大正10年08月27日

有馬伯爵家職員有馬秀雄の台詞 (有馬秀雄は有馬家の家族ではなく単なる職員)

有馬豊昌の気の毒な点あり。妻の道具はすべて美代と頼之が持ち去り一品もなき趣なり。
有馬家に妹名義の株券ありたるが、
有馬豊昌の言うごとき事実ににてありたるものならんかとも思わる。


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倉富日記 大正13年08月22日

有馬秀雄の台詞

豊子夫人が自分と自動車に同乗して小松侯爵家に行きたるところ、
頼寧は更に新たなる自動車を買入れこれに乗りて来りおられ、
その他どれも立派なる自動車多かりし為、
豊子夫人は「頼寧は立派なる自動車に乗り、自分は汚き車に乗せられたり」とて不平を言いおりたり。

また先日頼万が大阪に行かれたる時は脳の具合悪しく、しきりに癇癪を起し宿の者を打ちたり


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◆有馬頼寧
1884-1957 明治17-昭和32 72歳没

明治37年10月16日 学習院陸上運動会にて幅跳び
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■妻 北白川宮能久親王王女 貞子女王
1887- 明治20-
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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正10年06月15日

*倉富は有馬伯爵家の相談役も務めていた。

有馬伯爵家職員有馬秀雄 (有馬秀雄は有馬家の家族ではなく単なる職員)

先日慶応義塾にて頼寧が演説を為し非常に上出来にて、
学生などは涙を流して聴きたりとの報告を聞き、その演説の趣旨は
「自分は華族に生まれたる事を残念に思う。
今日華族や富豪が自動車に乗り諸君に泥を跳ね掛けるなどは実に不都合なり。
自動車などはこれを止めざるべからず」と言う如き事なりしに、
頼寧は自動車に乗りて帰りたるゆえ「やはり華族は華族なり」との笑いを買いたり。


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有馬頼義の妻 千代子

お父様〔舅頼寧〕が亡くなった時は、きれいな女の人がいっぱい来ました
「ワー、きれいな人」と言ったら、うちの主人が「あれ、親父の子だよ」なんてね。
最後はずっと可愛がっていた二号さんがいて、
臨終間近の床でうわ言みたいにその人の名を呼ぶわけです。
そりゃ、ほんとの奥方も大変ですよね。うちの主人にはお姉様が三人いるんですけど、
女はそういうとこキツイですからね、絶対知らん顔してるわけ。

その人家のすぐ近くに住んでたんです。
博多の芸者さんで19になって東京に連れてきて、ずっとお父様が死ぬまで二号さんでした。
ポチャポチャっとしてて、とても可愛い人でした。


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有馬頼義の妻 千代子

うちのお母様〔姑貞子〕はそれは見事な美人でしたが、
怖い顔でして、笑っちゃいけませんというような育ち方をしてますから、
目はキュッとつり上がって鼻はツンとしていて冷たい感じなんです。

上つ方というのは時代が変わってお手伝いさんが大勢いたのが私一人になっても、
昔通りに手を叩いて「ちょっと」と声をかければ、
誰かが控えていてすぐに「ハイ」と飛んでいくと思っているわけです。
控えている人がいるいないとかいう問題じゃない。
呼ばれて行くと、「それ、取ってちょうだい」 自分で取れって言いたくなるけど(笑)
ちょっと手を伸ばせば取れるものでも人を呼ぶんですね。

お母様の面倒もみてこれだけの土地建物を保ったのは、
旦那の小説の稼ぎだってことがわからない。
お金というものはそもそも有馬家にあるものだと思ってる。
「でも、普通の月給じゃとてもこれだけの生活はできません」と言っても、
「そんなことありません。有馬家は21万石、大名華族の何番目かの金持ちです」
そんなのはもう昔の話なのに(笑)

お母様はある朝布団の中で大往生でした。
たまたま四つになる上の子に朝お部屋へ行かせたんです。
と言ってもお母様のお部屋には身内といえどもやたらに入ってはいけない。
声をかけて返事がなければ引き下がってこなきゃならないわけ。
息子が帰ってきて「ばばちゃまがお返事がない」って言う。「そう、じゃまんだおねんねでしょう」
昼過ぎにお手伝いさんが来て「奥様からお声がないんですけど」と言うから、
一番上のお姉様に電話してお部屋に行ってもらったら布団の中でそのままだったんです。

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●実子 静子 斎藤斉子爵夫人
●実子 頼秋 早逝
●実子 頼春 未婚
●実子 澄子 足利惇氏子爵夫人
●実子 正子 亀井茲建伯爵夫人
●実子 頼義 次代当主 
●庶子 泰


手前 頼義
左から 頼春 澄子 頼寧 貞子夫人 静子 正子
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立つ左から 頼春 頼義 正子の夫亀井玆建 静子の夫斎藤斉
座る左から 子供 正子 貞子夫人 頼寧 静子 澄子
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有馬頼寧伯爵の日記 昭和02年10月12日

自分にも泰という子供があるが
幸いに小さくあるし家におらぬのでそれがために家庭の波瀾を引き起こさぬのは何よりの幸せ、
将来の事を思うと多少の懸念がないでもないが、
家の人はみな善良だからつまらぬ争いなどはせぬと信じている。


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有馬頼義

母から私の縁談が持ち出された。
私はもうその頃今の妻と結婚する意志を固めていたから、もちろん拒否した。
しかし母は承知しなかった。その人は静子の長女の同級生であった。
子爵であるのは分家だからで、本家は大大名の公爵であった。
しかし私のような者に血統書付きのおもちゃが必要であったろうか。
それで私は今の妻の写真を大きく引き伸ばして自分の机の上に飾っておいた。
ある日母はとうとう写真を見つけた。
「この方、好きな人?」
「ええ、そうです」
「どういう方?」
「芸者です」
母の返事はなかった。一時してドアを開いて出て行く母の足音を聞いた。

昭和19年の夏サイパンが陥ちた時、私は今の妻と所帯を持った。
自分の好きな文学書だけをリアカーに積んで家を出た。
私が家を出たとき荻窪に残っていたのは、父と母と女中頭のカネと執事の渋田老人と
熊次郎という小使と私の乳母であったモトの6人きりであった。
終戦まで渋田老人はひどく苦労したようであった。
渋田老人はまず、株の遣り繰りと銀行の借金の始末をしなければならなかった。
父は月給のもらえる職業に就いた時期でも、
まったく自分の収入を家の経済に入れることをしなかった。
私が渋田老人から家計を引き継いだ時、戦前の金で30万円の借金が残っていた。
渋田老人の第二の苦労は、
母もカネもモトも食糧の配給制度というものをまったく理解しなかったことであった。
モトは毎日八百屋や魚屋に電話をかけて品物を持ってくるように言ったが、
相手はそういう状態ではなかった。
モトは腹を立てて、「あの魚屋はお邸の恩も忘れてこの頃は電話をかけても持ってこないし、
御用聞きにも回ってこない」と言い続けた。
熊次郎が畑をやっていて、
麦や芋を作っていたことが当時の家の経済を支えていたと言っていい。
それでもカネは「奥方様にお芋ばっかり差し上げられない」とこぼしていたそうである。

戦犯として巣鴨へ収監されるので、父は私に帰ってきて欲しいと言った。
私は妻と一緒ならばと答えた。しかし父がいなくなってから、
姉とその連れあい達はそろって反対したのであった。
誰も私の妻の人格を認めていなかった。その雰囲気が逆に私に強い決意をさせた。
私は反対を押し切って強引に本邸へ戻って来た。
私と妻は二階の一番すみの部屋をあてがわれ、生活はすべて別々にした。
澄子夫婦は京都へ帰り、正子夫婦も三鷹の自宅へ戻った。
静子の一家だけは住む所がなくて、二階の一隅に寄食していた。

昭和29年の夏私は直木賞を受賞したが、その頃一つの問題があった。
私と妻の間に子供ができない事であった。
父は家が潰れてもいいと言い、母はそんな事はできないと言った。
養子の話が出て正子の所から一人貰ったら血は繋がるという意見が出たが、
澄子と正子の夫が反対した。
芸者であった私の妻の所へ大事な子供はやれないと言うのである。
養子の話がまとまらないまま父が死んだ。

姉達は私と妻に母を任せておけないと考えていた。
京都に住んでいた澄子が上京して母の家に住んだ。
そのうちに澄子は敷地の中に家を持ち、東京と京都と半々に暮らすようになった。
澄子の夫は京都にいたから、私には澄子の行動が不可解であった。
もともとエキセントリックな姉であったが、私は義兄に同情した。
やむを得ず澄子が京都へ帰らなければならない時は、
隣に住んでいる静子に頼んでいったようである。しかし静子はあまり問題にしなかった。

一緒に暮らし始めて14年、妻は男の子を生んだ。妻はその時35歳、私は40歳であった。
それ以来母は澄子の目をしのんで、こっそり私の家へ来るようになった。
「もう帰るんですか」と私が言うと、母は「澄さんに叱られるから」と答えた。
しつけについて私は私なりの考えを持っている。
私達はもう特権階級ではないし、頼央は市井の小説書きの息子であるに過ぎない。
「【央ちゃん】さえいなかったら、おたた様はもっと長生きなさったでしょうよ」と澄子が言った。
私は頭を殴られたような気がした。頼央が走って逃げるのを母が走って追いかけた事や、
私の子供に対するしつけの悪さを母が気に病んでいた事を差している事がだいたい想像された。

「央ちゃんさえいなかったら」その言葉は私を叩きのめした。
澄子の発言の対象は、頼央ではなく私の妻なのか。
もし仮に私がかつて見合いをした華族の令嬢が私の所へ来ていたら、
母はもっと長生きしたと言うのだろうか。
澄子はもとより父も母も、その他の私の周囲の誰もが【そこにある金】で暮らした。
しかし私と私の妻は働く事によって生計を立てた。連綿と400年に渡って続いた家系の中で、
働く事によって食えるようになった最初の人間が私なのであった。


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有馬頼義の妻 有馬千代子

うちの旦那もお母様のことは「おたあ様」って呼んでました。お姉様たちは「おたた様」
お母様はお父様のことを「お上」って呼ぶ。お父様はお母様を「貞さん」 
女の姉妹同士では「澄様」とか「静様」と様つけ。私に対しては「千代子」よ(笑)

一番上のお姉様は斉藤実さんの息子さんと結婚したのですが、
戦争の時は四谷の斉藤家も焼けてここの家に来る。
二番目は足利尊氏の子孫の大学教授のところへ嫁いでいたのが、
定年になって京都からこっちへ引っ越してくる。三番目は吉祥寺。
みんな集まってるから大変といえば大変でした。
土地が広くて昔からの植木屋さんがいたので、
戦後は花畑を作って私は自転車を練習してそれで花を届けたりしたことがあります。
無我夢中で生活費を稼いでいたんです。

お姉様たちは今日有馬家がこれだけ保っていられるのはあなたのおかげ、
本当にありがたいと言ってくれています。
だって旦那が亡くなった時ここの土地をあっさり子供たちに分けて、
私はハイ、サヨウナラと他へ行ったって済むことでしょう。
それを一応有馬家の土地として残し、マンションを建てて、それはそれで大変でした。
この頃ではこっちの方が皮肉を言うようになりましたね。
「私は有馬家の嫁ですから土地も一生懸命残しました。
でも息子二人はこの先これを売って何に使おうと、私のせいじゃありませんよ」なんてね(笑)

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◆有馬頼義 直木賞作家
1918-1980 大正07-昭和55
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■妻 芸者 前島千代子
大正12-平成12
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●美智子
●頼央
●頼英


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有馬頼義の妻 千代子

旦那の睡眠薬はもうお終いの頃なんて煙草を喫うようなもので、
やたらに飲んでいつもボーッと朦朧としてました。何回も入院させたんですけどダメでした。
関東中央病院に3ヶ月ほど入院したり
四谷の聖和病院やら東邦医大やら病院荒しをやったんですけど、
どうしてもやめさせられなかった。病院はダメとわかると二度と引き受けてくれないです。
最後の言いぐさは、「ああいうものは自分で治すものですから」

うちの旦那はよそで死んじゃったでしょう
旦那が危篤だと知らせがあったので、中学生と高校生だった子供二人をやったんですけど、
小指を立ててコレ〔愛人〕が病室に入れてくれなかったと帰って来たんです。
そしてとうとうダメになりました。
そのうちに有馬の三人のお姉様が
「やっぱり有馬家の人間だから、引き取ってお葬式を出してほしい」とおっしゃるので、
「じゃ申し訳ないけど有馬家の風習でないやり方でよかったらやります。
小説家というのは自分でなった仕事ですから、小説家としてのやり方でやらせてもらいます」
と啖呵を切ったんです。有馬家に嫁に来て20何年ぶりに反撃したわけ(笑)
それでもいいからと言うので、お酒もどんどん出して賑やかにやりました。
昔のお殿様は「お参りさせてあげる」という意識ですから、お茶とお菓子ぐらいです。

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by oMUGIo | 2004-03-11 00:00 | 武家華族
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