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壬生伯爵家 羽林家

◆壬生基修
1835-1906 天保06-明治39 71歳没
もと公家庭田重基の子
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■妻 公家四辻公績の娘 重子


●房子 公家庭田重文夫人
●基斉
●修子 清閑寺経房伯爵夫人
●基義 次代当主
●糸子 由利公通夫人
●麻子 南坊城良興夫人
●基綱 町尻量基となる 賀陽宮邦憲王の娘由紀子女王と結婚





◆壬生基義
1873-1936
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■前妻 岡沢精の娘 留子
1881-


■後妻 久邇宮朝彦親王の娘 篶子女王
1878-1947 


●綾子 池田政鋹子爵夫人
●種子 副島種義夫人
●基泰 次代当主


椅子 基義&篶子夫妻   立つ 基義の弟基綱/町尻量基 
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左 篶子夫人  右 種子
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立つ左から 基泰 基義
座る左から 篶子夫人 種子
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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正11年08月24日

宮内官僚小原駩吉男爵の台詞

壬生基義の性質は金銭に汚く品行不良にて、
妻篶子の姉妹の寡婦となりおる者と私したる事多く
先年死去したる池田詮政の寡婦安喜子のごときもその一人にて、
池田家の家職などはしきりに苦心したりし。

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◆壬生基泰●子供ナシ
1909-1979


■最初の妻 財閥渋沢正雄の娘 博子 渋沢栄一の孫
1919-1947


■2番目の妻 三好英之の娘 淑子
1921-


■3番目の妻 政治家の娘


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壬生基泰の最初の妻博子の妹 鮫島純子の手記 財閥渋沢正雄の娘/鮫島員重男爵夫人

姉はお茶の水女学校を18歳で卒業と同時に、
英語・フランス語・和裁・洋裁・編み物・茶道・華道・書道・ピアノ・ヴァイオリン・日本料理・
中華料理・フランス料理など十指に余るお稽古事を本人の意志のままに自分で申込み、
欲しい物はデパートの御帳場にサッサとつけて、
月末の請求書に母が驚きあわてて諌めるといったこともございました。

そのうちポツポツ縁談が持ち込まれ、
熱心に持ち込まれた話が公家の伯爵家からのものでございました。
姉本人の耳には入れず、
両親は「若すぎる」「公家の嫁向きに育てていない」を理由にすぐお断りしました。
ところが、あちらからこちらからのルートでさらに熱心に申し込まれました。
花婿候補の御母堂は某宮家の王女の由で、失礼があってはとやんごとなき筋を通し、
謹んでお断り言上の礼を尽くした次第でございましたが、なかなか御縁を切っていただけません。
やがて彼は、丸ビルにある父の事務所に通われるようになりました。

後になって知ったことでございますが、
先代基義伯爵が他人様にお頼まれになって借金の保証人の実印を押しておられたそうです。
伯爵家では先代が亡くなられた後、その事実がわかりました。
1000坪の土地屋敷が抵当に入っていたのですが、借り手が倒産してしまったのです。
すべては後日わかったことでしたが、
そのような理由でなかなか諦められずに何度も申し込んでこられた次第でした。

そんなこととは露知らず、
「博子は若いから人を見る目がまだ育っていないのだろう。あれはなかなかいい青年だよ」
と父の心はいつしか娘の結婚に傾いていきました。
1年半見守るなか着かず離れずデートなど始まり、
姉も「10歳年上の<おじい>なんて若さがなくて」と言っておりましたのに
そのうち年齢差も気にならなくなったのか、
とうとう「両親がいいと認める相手だから」と昭和13年11月、妻になりました。

あれだけ望まれて行ったのですからさぞかし大事にされているのだろうと思っていましたところ、
夫婦仲は良いのですが、お姑様・小姑様・先代基義の側室・先代の妹様(御離縁で出戻り)・
古くからいるお女中頭、人間関係の複雑さに、のんびり育った姉の試練は厳しいものでした。
良かれかしと思うがゆえに、
可愛がって育てた初めての娘を無理に近い格好で嫁がせた母としては、
蔭になり日なたになり、励ましかばい、経済的援助の手を差し伸べ、
それは母にとってもつらい試練のようでした。

そのうちやっと前述のようなお家の内情が打ち明けられ、
抵当になっている代々木の1000坪の土地建物を取り戻してほしいとの御依頼があり、
両親は驚きました。
お嬢さん育ちそのままの疑うことも知らない無邪気な姉でしたが、
揉まれていませんでしただけに
お姑様をはじめ複雑な人間関係の駆け引きに驚き戸惑いながら仕えました。
戦中もモンペ姿で食料調達に駆け回り、
三老人(お姑様・先代側室・痴呆症の義叔母様)をいたわりながら奮戦し、
やがて疎開先の鎌倉で二老人を見送りました。
取り戻した代々木の屋敷は焼けてしまい、
終戦後行くあてもないまま鎌倉を引き上げて実家にお姑様ともども転がり込みました。
まだまだ宮様気質のままのお姑様に一番良い南向きの10畳の座敷を提供し、
結局母ぐるみでお仕えする羽目になったのです。
娘を思えばこそ、母は愚痴ひとつこぼさず、最期のお看取りまでその家でまっとういたしました。

姉夫婦はやっと晴れて二人だけの新生活が始められることになりましたが、
昭和23年心臓病に苦しみながら姉は亡くなりました。わずか30年の生涯でした。
思うことがすべてかない、「博子様は何事も御運が良い」と使用人たちに言われていた娘時代と
結婚後の天と地のようなギャップを想う時、人生の意味を考えさせられました。
通夜の日、姉の遺体の前で
「博子がいなくなりまして不自由になります。後を探していただけませんか」
という義兄の正直すぎる言葉に私は耳を疑いました。
それに対して、ずっと病床で泊まり込みで看病しておりました母は、
「そうね、ご不自由におなりね」と約束通り良いお嫁様をお世話しました。

清水建設社長のお孫さんでしたから、
姉が苦心して取り戻した家はすぐに立派な家に建て替わりました。
5年後亡くなられたこの奥様のすぐ後には、
当時の国務大臣おお嬢様が私の家でお見合いされ嫁がれました。
帝国ホテルでの披露宴には、姉が嫁いだ時と同様、宮様がおおぜい御出席されました。
仲人岸信介氏が「新郎は今まで配偶者に恵まれませんでしたが、このたびは・・・」
と新婦の紹介をされた時、私はなんとも複雑な気持ちで姉が哀れに想われました。

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by oMUGIo | 2002-03-16 00:00 | 公家華族
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