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大河内子爵家 高崎藩主 その2

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歌人 川田順

〔大河内国子との不倫について〕
諸方から面白半分の文章を書くようになったら大変だ。
むしろ先手を打って僕みずから事実を告白する方が安全だと考えた。
いっそのこと自分で書いた方が誤伝がなくてよろしいと決心した次第である。

僕は彼女が新婚の時〔国子は明治34年結婚〕から知っていた。
国子は僕の妹みか子を訪ねて牛込の宅に見えた。
彼女らは学友だがクラスは1年違った。
僕と同じ年の国子は徳川家の女性で、以前から僕の歌のファンであった。
むろんそれっきりで何の交渉もなかった。

明治39年正月、僕は七里ヶ浜を前にした腰越に避寒した。
ある日突然国子が姪の蜂須賀年子さんを連れて訪問した。
15代将軍様の姫君にしては軽率だと僕は驚いた。
「東京なら知らず、どうしてこんな所まで?」
「大磯の別荘で年を越しましたの。こちらにおいでのことをみか子さんから承りましたので」
貴族というものは生まれつきの傍若無人で人を恐れることを知らないのだと僕は驚いた。
以来時々葉書のやりとりをし両三度会ったけれども、
僕はいつも感情を押し殺して彼女を刺激しないように努力した。

同明治39年の4月、華族会館である大きな会合が催された。
森鴎外先生の講演が済むと、いささかビールの酔いの回った僕は庭に出た。
余興が始まるというので大広間に戻ると、次は国子のヴァイオリン独奏だ。
控室にいた彼女は弓の糸のほつれたのを「早く切ってちょうだい」と僕に言った。
僕はそれを引きちぎりながら彼女について大広間へ急いだ。
彼女は薄水色の袂をひるがえして華やかに一曲を奏した。
この日僕は押し殺してきた感情をもはや抑えきれなくなった。
「赤坂見附に僕の知っている静かな家がありますが、
そこで晩餐を一緒にして下さいませんか?」
「これからですか?それは駄目よ。裾模様で外を歩かれないじゃありませんか」
翌朝彼女からの電話で
「今日三田の姉〔蜂須賀筆子〕のところへ参りますから、
11時頃赤坂見附の並木の下でお待ち下さい」

「昨晩は夜通し眠れませんでした。あなたもそうでしょう。
よく眠れたようなあなたでしたら、わたくしここから帰るわ」
「蜂須賀さんへは何時までにおいでになったらいいんです?」
「2時頃」
二人だけで会うことは彼女の境涯上容易でなく、月に一度がせいぜいであった。
稀には国子が牛込の宅にも見えた。
「順ちゃん、千姫様からお電話ですよ」と兄嫁が僕をよくからかった。
「お義姉さん、これをあなたご自身で風呂にくべて下さい」と歌日誌を渡した。
「焼きながら読みました。大変なご執心で、これでは手がつけられないと思いました」
と兄嫁は微笑した。

同明治39年の暮れも僕は腰越に避寒し、国子は大磯の別荘にいた。
大晦日に彼女は老女をお供にして来訪した。
江の島の弁財天にお詣りしたが、昼時に食事をしようと言うと、
老女は国子に「御遠慮あそばす方がよろしゅうございましょう」と言った。
明けた明治40年正月、「おいで下さいませんか」と葉書が来たので出かけた。
夕食後国子が海岸を歩きましょうと言うと、
老女が「こんな寒い暗い晩に、おやめになりましたら」
「いいのよ。お月様を見ようと言うのじゃないもの」
彼女はずんずん先に立って出るので僕も老女もついて出た。
老女の名はシマである。シマは幕府瓦解の時慶喜公に従って静岡へ移った忠実な侍女だ。

同明治40年3月、彼女は修善寺温泉からほとんど毎日のように便りしてきた。
「ぜひおいで下さい」とのことなので、
1週間ばかりしてやっと決心し修善寺を訪ねると「一昨日お帰りになりました」
その後で苦情を述べると
「あなたがお悪いんです。ずいぶんお待たせになったから、帰る日が来てしまったのです。
おいで下さいと申し上げたら、すぐおいでになるものですよ」
この言いぐさは命令しているように聞こえて僕は不愉快になった。
彼女に対して僕の唯一の不満は、
彼女が生まれた身分を時として無意識の間に示すことであった。
貴族の国子は天真爛漫さおのずから身につけていた。
彼女は遠慮せず、時々大きな声で泣いた。
大学の卒業試験が済んでほっとした頃のことである。
向島の百花園の帰り道僕らはその近所の家でしばらく休息した。
さて何が悲しかったのか、突然国子は大きな声で泣き出した。僕はびっくりし茫然とした。
「お屋敷ではございません。ここはよそでございますよ」とシマがたしなめた。
シマが僕らを促したので一足先に門を出た。
後から追いついたシマは「お行儀がよろしゅうございません」と再び国子をたしなめた。

同明治40年夏、大学を卒業した僕はどこにでも就職できる成績だったが、
国子の危険から遠ざかるために大阪を選んで赴任した。
ところが翌明治41年4月彼女は周囲の人々の思惑もはばからず、
有馬温泉への湯治の道すがら大阪に下車し、
シマ一人をお供にしてむさくるしい下宿に僕を訪ねてきた。
シマは遠慮しておかみさんの部屋へ下がって行った。
中之島の花屋旅館に1週間泊まった国子は、
公園の藤棚の花が散りつくしたころ有馬へと去った。
国子は兵衛に、僕は御所ノ坊に宿を取った。
国子と鼓ヶ滝を一見して山道を下りてくると、
谷の岸で待っていたシマが「お二方が川を流れてきたら、
シマも申し訳にすぐ飛び込む覚悟をしておりました」と悲痛な顔をした。
僕はぞっとしたが国子は平気だった。
夜分9時頃になると僕は必ず宿へ帰った。
「御遠慮には及びませんよ。わたくしがお供していることですし、
この旅館は広くて離れた部屋がいくつもございますから」
とシマは言ってくれたが、同宿するほどあつかましい男ではなかった。

帰京した国子は関西での一部始終を弟の慶久さんに話した。
「お姉様は桂昌院〔5代将軍の生母〕のことを御存知ですか?
良し悪しに関わらず、結局女が悪名を背負うものですよ」と戒めたそうだ。
同明治41年7月慶久さんから招かれて大阪から箱根の奈良屋に向かった。
容姿端麗の彼は夏羽織を着ていたが、羽織の紐の環は葵の打物で
それが大変上品に見えた。
彼はこの恋愛を断念せよとまでは言わなかった。
当時彼も女の問題で悩んでいた。侍女の一人と相愛していたが、
とうてい遂げられぬ仲とあきらめて侍女が郷里へ帰ったのはつい半年前のことである。
「鶯が鳴いています。有馬でもたくさん鳴いたそうですね。姉から何もかも聞きました。
まさか夫婦にはなれないのだから、お二人は結局悲恋に終わるでしょう。
それでいいじゃありませんか。どうぞ、心と心で」と忠告してくれた。
(明治41年11月慶久は有栖川宮威仁親王の娘美枝子女王と結婚する)

同明治41年秋僕らは不忍池のほとりを歩き弁天堂の前に来た。
「慶久が何か申しましたか?」
「いいえ、何も」
「なぜお隠しになるのです。慶久から聞きました。
夫婦には到底なれないって申しましたでしょう」
「そうでした」
「夫婦になれなかったら、あなたはどうなさるつもり?」
百花園の時のように声を出して泣かれたら困るので僕は立ち上がった。
「忘れ物しました」「何を?」「パラソル」「取ってきてあげましょう」
「そんなものどうでもいいの」と彼女はすたすた歩いた。
国子は既婚の座から下りてこられない。下りてきても勅許を要するから夫婦にはなれない。
「御夫婦にはなれませんよ」
僕はこの苦悶を隠しながら、国子と会うのをやめなかった。
僕はその後も隔月には上京した。

明治42年芝の増上寺〔徳川家霊廟があった〕が炎上し、
新聞で知った僕は驚いて国子へ見舞状を出した。
彼女の返事は案外さっぱりしたもので
「焼けたものはしょうがないではありませんか。それよりもなぜあなたは、
この春寒にわたくしが風邪を引いていないかと心配して下さらないのです?」と書いて寄こした。
先祖の廟所が焼けようが焼けまいが、彼女にはたいした関心事ではないらしい。

あきらめねばならぬ時が迫ってきたと思った。
けれども国子の考えは僕とまったく違っていた。
同明治42年上京して隅田川の岸の国子の邸を訪れ、
「互いに破滅を避けねばなりません。あなたは外国へ行って下さいませんか」
と感情を押し殺して勝手な一言を吐いた。国子は黙ったままで涙をぬぐった。
10日ほど経ってから手紙が来た。
「わたくしは外国へは参りません。あなたは残酷です。
わたくしが虚弱で、時々病気をすることをよく御存知ではありませんか。
どうしても破滅するとお思いでしたら、
男子のあなたが洋行なさったらいいではありませんか。
わたくしはあなたの身体をあきらめます。それよりも大切なことがあります。
あなたの恋愛はわたしくのより不純です。
わたくしに外国へ行けとおっしゃるのは、身体のことを恐れていらっしゃるのでしょう。
身体は千里万里離れても、心は離れませんよ。そしたら同じことではありませんか。
御記憶下さい。わたくしは離れませんよ。一生離れません」

明治43年僕は京都で結婚した。
翌明治44年についに国子は主人のいるロンドンへ発った。
発つ日を知らせてきたので、
神戸港の税関ランチででドイツ船に乗る彼女を人知れず見送った。
彼女はロンドンで病気し、いくばくもせずして帰国した。それからすぐに入院した。
元来繊弱の生まれつきの彼女は、その後もとかく病と親しんだらしい。

14年余りを経て大正13年、
国子から手紙を寄こし、詠草を添削して下さいませんかと頼んできた。
僕は再び心の燃え上ることを恐れて返事しなかったが、彼女はやがて詠草を送ってきた。
送ってきたものを返さないわけにはいかないので、添削してやった。
以来数年の間に毎年1、2度詠草だけを送って来た。
彼女は既に再会したものの如く妄想しているらしかった。
僕は再び秘かに会うことを抑制した。
すると昭和3年になってついに彼女から決定的の手紙が来た。
「どうしても会って下さらないのならば、大阪へ行ってお目にかかります」
僕はただちに彼女に電話で「皆さんの御承認があればお目にかかります」と言った。
彼女の家族の若夫婦〔輝信&富士子〕から
「母も初老を過ぎました。ぜひお目にかかりたいと申します。
それで皆で相談の結果、今後は私たちも仲間入りしてお友だちになります。
御遠慮なく家庭へ遊びにおいで下さい」という手紙が来た。僕は考え込んだ。
国子の心情をよく知っている華族の人々が熟議して決めたことだから、
他人がかれこれ言うべき筋合いではない。
人間的理解ある手紙で僕は救われた気がして「いずれ近日参上します」と返事した。
再会の第一日は同昭和3年代々木の邸で、
めずらしく主人(僕の亡兄龍と学習院で同級)も同席した。
互いに47歳になっていた。一座の人々にはなんのわだかまりもなかった。
和やかなようで寂しく、寂しいようで和やかであった。
主人は朗々として宝生流の一曲を謡い、
「川田君も」と勧めたので僕も観世流の花筐を謡った。
主人が僕ら二人に対して想像以上に寛容であったことについては深い理由があった。
その理由を書いて差し支えないものならば、僕らの罪は軽減されるに相違ない。
けれども書けない。主人も数年前にこの世を去った。
次回に代々木を訪問した時若主人の信さん曰く
「おかげで家庭が和やかになりました。母も近頃は御機嫌です。
それまではだだをこねて困ることが時々ありました。
今度のことは父も十分に了解しての話で、御迷惑はかけません。
ただ父は、川田君の奥さんも一緒に遊びに来て下さると一番いいのだがとは申しました」
他人の家庭を和やかにして、僕自身の家庭は?
罪の深いことだと心の中で妻へ詫びを言った。
襖を開けて入って来た国子は「信さん、なんのお話?」
「何でもありません。おたあさまが時々私たちを困らせたというお話ですよ」
と信さんは明るく笑った。

代々木の邸では、家職の老人や女中たちは
国子と僕との間柄が普通の交際ではないことを薄々勘付いたらしい。
僕たち二人の関係はもはや秘密ではなく、公知の秘密となった。
以来ときどき訪問し山や海へも小旅行をしたが、僕の妻も黙認してくれた。
国子は毎年1度か2度は関西に来て僕を誘い出した。
いつも若夫婦がお供なので窮屈でないわけではなかったが、
僕らを監視するという如きケチ臭い人ではない。
十分理解しての上のことだ。
互いの家庭を乱す恐れのある行為はなるべく慎むことにした。

永き別れとなった最後の日のことを思い出してみよう。
56歳の某日のことであった。原宿の家を訪うて午餐をいただくと、
「これから二人だけでお芝居へ行ってもいい?」
と国子は子供が親にねだるように若夫婦に言った。
若夫婦は「よろしゅうございますが、晩方にはお帰りあそばせ」と苦笑して承知した。
一幕も見終わらないうちに彼女は「出ましょうよ。大川が見たいの」と言う。
僕らは自動車で永代橋まで来た。うすら寒い風が吹いたが、
橋から川の左岸の細い街を歩いた。
京都に帰ると数日して「母が脳溢血で倒れました」と富士子さんから知らせてきた。
その後5年間は唯一半年ばかり意識を回復しただけで、あとは寝たっきりであった。
再三見舞ったが、意識まったく不明ですやすや寝息していた。
再会から10年余りして国子は病没した。
一昨年の晩秋若夫婦に勧められて、
銀杏の落葉を踏みながら武蔵野の菩提寺に参詣し国子の墓を拝んだ。

ここで彼女の生活のことを顧みる。
明治15年1月、不思議にも僕と同年同月に静岡の徳川邸で生まれ、
やがて学校に通う頃から千駄ヶ谷の徳川家達公の邸に預けられた。
僕の妹の観察によると「国子様はわがままでお威張りなさるので評判が悪いのよ。
境遇のせいかもしれないけど、お友だちが少ないの。
上品だけれども、兄さんがおっしゃるほどの美人じゃないと思うわ」
彼女は口数が少なかった。信仰らしいものはなかった。
一番の楽しみは短歌を作ること、稀に歌舞伎を観ること。
衣装道楽・履物道楽で、斜陽に傾いてからも立派な身なりをしていた。
着物や帯の模様にしばしば椿の花を散らした。
人形を蒐集する趣味を持ち、僕から進呈した古い宋の陶人形を愛玩した。
それから彼女は音痴の疑いがある。
公知の秘密を快く思わない妹はこんなことを言った。
「長唄のお催しの時、下手なくせに姉様顔なさるので皆さんお困りなのよ」

国子の嫁入り先の大河内子爵家は今戸にあった。都鳥浮く大川に臨み広大な構えだ。
今戸から代々木に移転したが、この邸の豪壮さも今戸に劣らなかった。
昭和の初めの金融大恐慌で国子の家も大きな損失を被ったらしいが、
それでも数年間はじっと構えていた。
次は逗子に、次は赤坂に、次は原宿にと転々とした。
移転するごとに家が小さくなるのを僕は寂しく感じたが、国子はいつも平気な顔をしていた。
僕らとはさすがに育ちが違う。

この原稿を編集部へ渡す前に、ぜひ通らねばならぬ一つの段階がある。
それは国子の遺族の承認を求めることだ。
富士子さんに見せたところ、「結構でございます。ずいぶん御遠慮ね」
とたちどころに承認されたので、僕は拍子抜けした。

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by oMUGIo | 2004-02-06 00:00 | 武家華族
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