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宗伯爵家 対馬藩主

◆宗義和
1818-1890


■妻 広島藩主浅野斉賢の娘 嘉代
1822-1890


●重正 次代当主
●和徳 原和徳となる
●和豊 井上和豊となる
●和志 久留里藩主黒田直和の娘鏻子の婿養子になり黒田和志子爵となる
●植子 亀山藩主松平信正の後妻
●和一 佐賀和一となる
●定  仁位定となる
●和子 九条道孝公爵夫人
●和東 杉村和東となる
●宝子 公家難波宗礼の後妻





◆宗重正
1847-1902


■妻 蓮池藩主鍋島直与の娘 綱子
1851-1891 


●重望 次代当主
●全子 松平武修子爵の前妻
●績子 酒井忠道伯爵の後妻
●正誼 氏家正誼となる





◆宗重望●子供ナシ
1867-1923
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■妻 松園尚嘉男爵の娘 尚子
1873-1923 
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◆宗武志
1908-1985
もと黒田和志子爵の子
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■前妻 大韓帝国初代皇帝高宗の娘 李徳恵 李垠王の妹 離婚
1912-1989
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韓国にて   左 義姉方子   右 徳恵
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■後妻 勝村繁の娘 欣永
1931-


●前妻の子 正恵 行方不明のまま死亡認定
●後妻の子 立人
●後妻の子 和木
●後妻の子 中正


●正恵 

*23歳の時に大学時代に知り合った26歳の中学の英語教師の男性と恋愛結婚したが、
翌年遺書を残して失踪、生死不明のまま死亡と認定された。
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徳恵の義姉 李方子 梨本宮守正王の娘/李垠王妃

夏休みには私が付き添って伊香保に避暑されていましたが、
秋になって学校が始まっても、行きたくないと終日床につかれて食事にも出ようとされません。
夜は強度の不眠症で、時には突然外に飛び出され、
驚いてお探しすると裏門から赤坂見附の方へ歩いておられたりということもあったので、
ただごとではないと精神科の先生に来診をお願いし、
看護婦もお付きして当分は大磯の別荘で静養されることになりました。

もともと内気な方だったとはいえ、私などには明るく希望に満ちたお話しぶりで、
将来は学校の先生になって、と ご利発なお言葉を頼もしく伺っていたのに、
今は鬱々として床についておられるばかりなのです。
「早く元気におなり遊ばして・・・」
とベッドの枕辺にひざまづいて幾度となく涙を流してお話ししましたが、
受け答えもなく、ついに早発性痴呆症と診断されました

ところが昭和06年を迎えて徳恵様はだいぶ落ち着かれ、
お食事も進んでお話しも少しは調子良く話されるようになったため、
宗伯爵との御縁談も順調に進んで05月08日には御結婚式が挙げられることになりました。

この日の早いことを誰よりも望んでいた殿下〔李垠王〕と私であったとはいえ、
また小康を得られたとはいいながら白い洋装のお姿が何かしらおいたわしい思いがして、
そっと涙をぬぐったことでした。
再発への心配と、朝鮮の血を無理矢理日本の血の中へ同化させてしまおうとする
当局の意図への反発も、秘かに感じていた私でした。


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宗武志の教育係であった平山為太郎の日記 昭和06年11月03日

午前10時、伯爵〔宗武志〕に伺候し、古森氏・斎藤家令・伯爵と4人、
絵画の談および蘭の培養等につき長時間談話をなす。
その時に徳恵夫人も突然来席あり。
挨拶を述べしも、一言の言葉なく答礼ありしのみ。
そして絶えず声を出して失笑せらるること数次、真に病的の挙動なり
伯爵の御胸中 果たして如何、嘆息の至りなり。
 

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昭和13年から昭和15年まで宗伯爵家に勤めた中村国枝の証言

*対馬の小学校時代、宗武志の担任を務めた米田隆太の娘
その縁で女学校卒業後、上京して宗伯爵家に勤める

私は正恵さんのお勉強やお遊びのお相手をするのが第一の仕事で、
他にお掃除や縫い物などもいたしました。
正恵さんは当時小学校の1年ぐらいでしたが、細くて弱い体のお子さんで、
御養生のために湯河原の温泉へお供したこともあります。
学習院の送り迎えにもお供いたしました。
父兄会に私が代理で出席したこともありました。

当時の宗家には十数人の人が働いていたでしょうか。
私達は御当主を【伯爵様】とお呼びし、徳恵様のことを【御前様】とお呼びしていました。
伯爵様は週に何回かは千葉の方へ講義にお出かけで、遠いので夜遅くなられることもありました。
広い洋間の書斎があって、よく書き物などをしておられました。
伯爵様がお風呂に入って大きなお声で『この道』を歌っておられたのを覚えています。
とてもいいお声でした。
一度、伯爵様とピンポンをしたことがありましたが、あれは応接間だったかしら・・・。

徳恵様のお世話はミヨさんと和田さんの二人が主にしていました。
お召し物は洋服のことも和服のこともありました。
具合の良くない時、御寝巻にガウンをかえけたお姿も多かったようです。
お身体の華奢な、手も本当にほっそりとしてきれいな方でした。
時々2階から、誰も相手がいないのに笑う声が聞こえることもありました
時たま2階から正恵さんの部屋に降りてきて、椅子にじっと座っていらっしゃることもありました。
そんな時 何もおっしゃらないのですが、
お名前をお尋ねすると漢字で「徳恵」とお書きになります。
「お子様は何とおっしゃいますか」と聞くと「正恵」とお書きになりました。

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1908年 明治41
宗武志 誕生


1912年 大正01
徳恵 誕生


1919年 大正08 徳恵07歳
徳恵 父死去


1925年 大正14 徳恵13歳 
徳恵 来日


1929年 昭和04 徳恵17歳  
徳恵 母死去


1930年 昭和05 武志22歳 徳恵18歳 
李垠・方子・徳恵 完成した李王家新邸へ転居 
「早発性痴呆症」と診断される
武志と徳恵 初対面


1931年 昭和06 武志23歳 徳恵19歳 
武志と徳恵 結婚


1932年 昭和07 武志24歳 徳恵20歳 
正恵 誕生


1946年 昭和21 武志38歳 徳恵34歳 正恵14 
徳恵 入院


1955年 昭和30 武志47歳 徳恵43歳 正恵23歳 
正恵 結婚
武志と徳恵 離婚
武志 再婚


1956年 昭和31 武志48歳 徳恵43歳 正恵24歳 
正恵 失踪、生死不明のまま死亡認定


1962年 昭和37 武志54歳 徳恵50歳 
徳恵 帰国


1985年 昭和60 武志 死去 77歳


1989年 平成01 徳恵 死去 76歳

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by oMUGIo | 2004-06-19 00:00 | 武家華族
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