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相馬子爵家 中村藩 その3

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≪相馬事件≫

※当時の総理大臣の年給は1万2000円である。

相馬事件は、明治10年から明治27年まで18年にも渡るお家騒動だった。
大筋を述べると、相馬家の当主誠胤が精神病となってしまっため、
前当主である父親充胤が誠胤を座敷牢に監禁した。
しかし誠胤は狂人であるという家臣と誠胤は狂人ではないという家臣とが対立し、
訴訟に次ぐ訴訟となった。
さらに途中で誠胤が急死したため、今度は狂人ではない派は毒殺されたのではないかと疑い、
またも訴訟に次ぐ訴訟となった。
どちらも多くの専門家が診断に関わったが、
結局精神病については精神病だが監禁は不要だったのではということで黒に近いグレー、
毒殺についてはその痕跡はまったくナシということでシロ、という結論で終わった。
しかし18年もかかったから登場人物が多いのか、登場人物が多かったから18年もかかったのか、
とにかく多数の有名人が絡んだ事件であった。


<誠胤、監禁される>
中村藩主相馬充胤には側室に生ませた誠胤と別の側室に生ませた順胤とがいた。
充胤が隠居して誠胤が当主となり、松本藩主戸田光則の娘京子と結婚する。
ところが明治10年26歳の頃から誠胤に精神病の兆候が現れる。
家来を槍で刺そうとしたり、妻を刀で切ろうとしたり、切腹の真似をしてみたり、
周囲に暴力を爆発させるようになる。
そこで父充胤は明治12年宮内省の許可を得て東京本邸の座敷牢に誠胤を監禁して、
東京府立癲狂院および帝国大学第一医院の医師の治療を受けさせることにした。

この処置に反主流派の家臣が疑念を持つ。
「正常な誠胤を当主の座から引きずり下ろして異母弟順胤を新当主にするために
側室や取り巻きが謀った陰謀ではないか」
さらには「誠胤の結婚も最初美しい姉の方と見合わせておいて
実際には不器量で不妊の妹京子とすり替えた。
これも世継ぎを作らせない陰謀だ」とエスカレートする。
(これは京子や実家の戸田家に失礼じゃないのか?)

反主流派から立ち上がったのは下級武士だった錦織剛清、
迎え撃つ主流派家臣は相馬家の家令を務める志賀直道(作家志賀直哉の祖父)。
明治維新のゴタゴタを挟んで相馬家の財政を立て直し、
小藩ながらも資産数百万円の資産家に育てた功労者である。

錦織は明治16年相馬家に押しかけて、
・誠胤の監禁を解くこと
・誠胤と京子を離婚させること
・誠胤に新しい妻を迎えること
などを要求する。もちろん相馬家は相手にしない。
錦織は何度も相馬家に押しかけ、何度も警察に捕まった。


<錦織、ねばる>
錦織は支持者を求めて、
東久世通禧伯爵・山岡鉄太郎子爵・香川敬三伯爵・岩倉具視公爵などに面会する。
そしてついに医師であり内務省衛生局長であった後藤新平伯爵の支持を得る。
医療官僚である後藤は、精神病者の人権問題としてこれを問題視した。
『家令志賀直道らは私欲の一点に走り、誠胤の権利滅却し去りてその財産を承由し、
一家を儘にせんとするものの如し。この後は警視よりいっそう御立入願い、
かつ医官は断然誠胤の妻の陰部検査を行い、先天的不具にそうろう時は
諸般の悪計露見の端を開きそうろうことは、相叶まじきものと御座候』 (ひでえ)

明治17年後藤は警視庁に働きかけて、
警視庁医務所長長谷川泰と東京府立癲狂病院院長中井常次郎に誠胤を診察させる。
診察の結果、監禁までは不要との診断が下りる。
これを受けて錦織は相馬家に向かい、誠胤と面会しようとする。
しかし対応に出た次代当主順胤から面会を断られた錦織は激怒、
順胤を始め周囲の家臣たちを突き飛ばして座敷牢に突進した。
錦織は逮捕され、相馬家は誠胤を東京府立癲狂病院に入院させる。
刑務所から出た錦織はさっそく病院に忍び込み、また逮捕される。


<錦織、誠胤を奪還する>
明治20年01月30日、再度錦織は病院に忍び込み誠胤を奪還に成功する。
錦織は誠胤を連れて後藤新平宅に逃げ込む。
誠胤を診断した後藤は、精神病ではあるが監禁するほど重症ではないと判断する。
しかし錦織と誠胤は警察に保護される。
02月19日、父充胤が心労のため血を吐いて死亡する。
03月09日、当主代理となった順胤は親族会議を開く。
・医科大学第一病院で誠胤を診断させる
・浅野長勲侯爵を誠胤の後見人とする
ことが決まる。
04月19日、榊俶やベルツらが診断を下す。
「誠胤は精神病家の血統に属し、26歳の時より発病し今なお精神病であり、時発性躁暴狂」
としながらも自宅療養を指示する。
これを受けて相馬家は誠胤を退院させ自宅療養させる。
一時は症状も軽くなり、明治22年には側室との間に男子秀胤も生まれる。


<錦織、誠胤の縁談を画策する>
このあたりで満足しておけばいいものを、錦織は誠胤に素晴らしい嫁を迎えようとする。
懸案の妻京子は明治17年に亡くなっていた。
錦織が狙ったのは久邇宮家の女王である。久邇宮家も乗り気で話はまとまる。
しかし後は宮内省に願書を提出するだけという段階になっても、
後見人浅野長勲侯爵は捺印を拒んだ。
宮家の女王に精神病の婿を与えるということは不敬であるとの考えからである。

錦織は明治22年に浅野に対して、
・誠胤は全快しているので後見人を辞めること
・久邇宮家女王の降嫁に尽力すること
・家臣を一新すること
などを要求する。もちろん浅野・相馬家は相手にしない。


<誠胤、急死する>
明治25年01月、錦織は家政奪還を目指して相馬家親族を告訴する。
ところが02月22日、誠胤が急死する。
当然錦織は毒殺を疑う。相馬事件第2ラウンドの始まりである。 
錦織は再度後藤新平に泣きつく。
後藤は死んだ誠胤の毒殺をうんぬんするより、
誠胤の遺児秀胤を相馬家から奪還して育てた方が有意義だと提案する。
明治26年、後藤と錦織は相馬家へ行って秀胤を奪還しようとするが、
当然それは誘拐にあたるとして警察から退けられる。
07月、錦織は誠胤毒殺容疑で相馬家親族を告訴する。
これに対して相馬家は、弁護士星亨に依頼して錦織を誣告罪で告訴する。
警察の事情聴取を受けた者は65人。華族・政府高官が多数含まれていた。


<とばっちりを受けた人々>
東京帝大精神科教授で相馬家の主治医であった榊俶は証人として出廷したが、
毒殺魔であるという疑いをかけられてしまう。
榊の実母が嫁に毒殺されかけたと証言したのである。
とすればその毒物は榊が渡した物ということになり、
今回の誠胤の死亡事件に関しても毒物を相馬家に渡したのではないかという理屈である。
結局これは榊家の嫁姑問題から年老いて疑り深くなった母親の勘違いだと明らかになるが、
榊俶は毒殺魔の疑いはかけられるわ、家庭内のいざこざはバレるわで、大迷惑を受けた。


<決着>
明治26年08月28日、裁判所は保管されていた誠胤の血液検査を命じる。
血液から毒物は発見されなかった。
続いて09月08日、死後1年半の遺体が掘り起こされて司法解剖された。
内臓などの一部を切り取り鑑定されたが、毒物は発見されなかった。
これを受けて10月23日錦織が逮捕され、11月16日後藤新平が逮捕される。
翌明治27年05月、錦織に実刑4年、後藤は証拠不十分で無罪となる。

その後相馬家はさらに資産を増やし、
大正期には300万円、昭和期には400万円の資産家華族になる。
後藤新平は政治家として大成するが、
錦織は相馬家に関係することはなく大正10年66歳で死亡した。
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左から 後藤新平 今村秀栄 錦織剛清
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by oMUGIo | 2004-07-03 00:00 | 武家華族
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