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奥平伯爵家 中津藩主

◆奥平昌服
1831-1901


■妻 飯野藩主保科正丕の娘 照子
1832-1884 


●長昌 稲垣長敬子爵の娘銑子の婿養子になり稲垣長昌子爵となる
●春子 安生順一夫人
●昌久 松平昌久となる
●忠善
●昌繁
●昌友
●定之助





◆奥平昌邁
1855-1884
もと伊達宗城侯爵の子
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■妻 山形藩主水野忠精の娘 静子 死別・辰馬半右衛門と再婚
1862- 


●昌恭
●昌国
●栄之助





◆奥平昌恭
1877-1948
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■妻 有馬頼万伯爵の娘 禎子
1883-1945
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●本妻の子 昌信 次代当主
●生母不明 昌英 烏山吉端と結婚


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萬朝報 明治31年07月17日

伯爵奥平昌恭は北品川の引手茶屋山川千代養女マチ(18)を妾とし、
同家の家屋建築費等を出しやりて寵愛しおれども同家に到るははなはだ稀にして、
人目を憚るため多くは三十間掘の船宿兵庫屋または烏森の名月などへ出向きて
マチを呼び寄せて楽しむを例とす。

また同人の祖父昌服は70近き老人なるにもかかわらず二人の老妾を置き、
手当りに下女に手をつけ昨年一子を挙げたるが、
三田の福沢翁〔福沢諭吉〕はこのていを見て痛く心配し、
なにか仕事をさせなばこの弊風を矯むるを得べしとて、
かつて時計磨きを勧めたるに最初のうちこそいささか効き目ありたれども、
後には高価の時計を買い集むるのみにて好色の癖依然としてやまざりしかば、
さらに小鳥の飼養を勧めたれどもこれも効なかりしという。


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禎子夫人の甥 有馬頼義

禎子は豊後中津の藩主、伯爵奥平昌恭に嫁したが、この結婚は失敗であった。
破局の原因は昌恭の酒乱で、禎子は殴る蹴るの乱暴をされて
二度と奥平家に戻るまいと決心したが、女一人で生きていく方法がない。
禎子は月にわずかな手当てを私の父からもらって転々と借家住まいをしていた。
禎子は死の数年前から高円寺の焼け残った上下三間の小さな借家に住みついていた。
父の巣鴨行〔戦犯〕が決まったゴタゴタの中で突然訃報が届いたのであった。

当時はまだ薪で死者を焼いていたから、めっぽう長い時間を待たされたのを覚えている。
しかし骨は有馬家の物ではなかった。離縁をしていない以上奥平家の物のはずであった。
私は禎子の骨壺を抱えて奥平家へ行ったが、そんなものは知らないと断られ
仕方なく奥平家の菩提寺へ持って行って住職に預かってもらった。
岩倉具視の孫にあたる奥平伯爵夫人は、陋屋で窮死したのであった。


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◆奥平昌信
1903-1984


■最初の妻 浜口吉右衛門の娘 利子 死別
1905-1927


■2番目の妻 結城豊太郎の娘 京子
1911-1948


■3番目の妻 宮本利吉の娘 フミ
1919-


●登代子
●和子


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奥平昌信の母方のイトコ 有馬頼義

昌恭と禎子との間に一子があり、昌信といった。
昌信は終戦の08月15日、皇居前広場で日本刀で腹を切ったのであった。
しかし、助かった。その後の消息は知らない。

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by oMUGIo | 2004-06-10 00:00 | 武家華族
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