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有馬伯爵家 久留米藩主 その5

≪有馬頼寧伯爵の愛人 松信緑編≫

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有馬頼寧伯爵の日記 大正08年補遺

<有馬頼寧自身によるまとめ>

ミドリが奉公に来たのは大正06年の09月であった。
その時は別に注意を引くような事もなかった。
大正07年の02月頃から私の頭にはミドリを忘れる事が出来なくなった。
他の女中達に比べれば顔も美しい姿も良い、しかし非常な美人というでもない。
しかし常に沈んでいる様な考えている様な、
クリスチャンの人に有りがちな落ち着いた態度が良く可愛く思われた。
そして単に可愛いと思っていたものが、ついに熱烈な恋となってしまった。
しかし年来女に関しては不品行を数多くした私にとっては、
精神的な美しい恋というよりはむしろ内的要求の対象物として私を悩ました。

春から夏にかけ私はしつこく追い回し、
また機会あるごとに手紙をやって自分の愛に従わん事を望んだ。
しかし私を恋していない、また信仰という事も手伝って決して私に従うとは言わなかった。
きかれなければきかれぬほど思う心は募るばかりであった。
そのうち頼秋〔頼寧の長男〕がミドリに心を寄せている事が感づかれだした。
ミドリはもちろん意にも介せなかった。
私としては憎らしいというよりは心配であり可哀想であり苦しかった。
頼秋に満足を与えるにはあまりに私が恋しすぎていた。
私とミドリとの間を心配のあまり池尻が長浜に相談し、
長浜からミドリの家に話して引き取らせる事とした。
私としては、家の平和のためミドリ自身のため頼秋のため、それが一番良いと思って承諾した。

しかし何事にも自分の望みを達せなくては満足できぬ私の気性として、
ミドリに手紙をやり帰ってから他で会合する相談をした。
そして自分の心持を初めて口で充分述べた。
ミドリも私の心持は大体手紙で知っていたし、また熱烈な私の恋を退けるほど冷たくもなかった。
それがためとうとう肉体関係が成り立ってしまった
その後佐原に帰ってからも毎月一度ぐらいは上京してもらい危ない逢瀬を楽しんだ。
12月頃にはもうまったく離れる事のできぬものとなり、
私はミドリのため富も名誉も捨てて一緒になる決心をした。
この時に私達二人にとって最大幸福の時であった。

これより先ミドリの兄春之助氏に面会、ミドリと共にアメリカへ行く許可を両親に求めた。
私達の考えのあまりに乱暴なのに両親もだいぶ苦しまれた様であったけれど、
秘密に実行するという条件下に許された。越えて今年01月私は佐原へ行き、
両親の許しの下に初めて公然と佐原に泊まって、ほとんど一睡せぬほどに喜び語り明かした。
その後はたびたび佐原へ行った。またミドリは春頃から横浜の青年会にいた。
それは会うのに都合の良いためと外国行の準備のためであった。
横浜にいた頃は1週に1度東京から行き、1度は東京へ来てもらって会っていた。

その内に父さんが会社に勤める事になって佐原を引き払って東京住まいをされる様になったので、
横浜にいるのも変なものだし、洋行もほとんど望みないものとなったので入谷に引っ越した。
それから後は1週に2度入谷の家に行った。
洋行はとても駄目、たとえ行かれたにしたところ到底アメリカで幸福な生活を送れる見込みもなし。
両親もあまり好まれぬので中止となり、東京にいて何とか良い工夫をする相談をした。
昨年の秋同情園の子供を荻窪に招んでから社会の注意を引くようになり、
09月から信愛中等夜学校を経営するようになってから、
世間の私に対する注意は相当濃いものとなった。
その時分から私はミドリとの関係を相当気にするようになった。
仕事のためにミドリに対する愛を幾分そがれた。
別れるという意思はないにしても何とかせねばならぬと思っていた。
本人はもちろん両親も一生日陰者として私に身を捧げてくれる決心をしていた。
しかし良い方法はもちろんなかった。その方法としては、
ミドリが両親と別居し絵や英語の勉強をして独立の基礎を作るというのであったけれど、
東京にいて別居も変なものだし、どう考えてみても良い方法はなかった。

そこに突然新しい事が生じてきた。
池尻夫婦が嫁の口を世話すると言ってミドリの家を訪ねて来てミドリの独身生活を非難し、
ミドリと私との関係がある様に噂のあるのは私のためにもミドリのためにも不幸だから、
ぜひ嫁にやると進めた。もし聞き入れねば瀧川や稲見に相談に行くと言ったので
両親も大変困りかつ私の身を思って心配された。
その結果、私とミドリは相談の上お互いの身の幸福のために別れる相談をした。
私も今まで商売人にも素人にも関係した女が少なくない。
私はそれを大して悪い事だと思っていなかった。
世間から非難を受ける様な事があっても大して驚こうとは思っていなかった。
しかし社会的事業に携わるようになり殊に教育という事に関係するようになってから、
自らを顧みての苦しみは日々に加わってきた。
ミドリとの関係を考えると良心の呵責は相当に重かった。

私がミドリに対して取った態度は決して恋人として取るべき態度ではなかった。
すべては年とともに去ってしまった。
大正08年の行き過ぎるとともに私の罪は永遠に流れ去ってしまった。
私は捨てられたのだ。いや救われたのだ。
私にとって大正08年は良い意味においても悪い意味においても一番幸福な年で、
おそらくは一生の内二度とない年だと思う。
その意味においてのみ年の暮れるのを名残惜しく思う。

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松信緑は茨城県出身、同志社女学校を卒業、
家族は両親と兄、一家は千葉県佐原市に住んでいた。
ミドリの父と有馬家の職員長浜直哉と親しかった関係から、
大正06年09月長浜の紹介で有馬伯爵家に行儀見習として勤めることになった。
翌大正07年02月頃頼寧がミドリを見初め積極的に口説くようになる。
当時頼寧は東京帝大農学部で講師を務め、2男3女の父であった。
ミドリは拒否し続けていたが、
そのうち知らずに頼寧の息子頼春までもがミドリに魅かれるようになる。
ミドリは有馬家から暇を出され両親の元に戻ったが、
その後も頼寧に口説かれついに不倫関係となる。
頼寧は両親とともに住むミドリの家に通って泊まるようになる。
しかしミドリが妾になる事を拒み本妻となる事を望んだため、
頼寧は二人でアメリカへ行って暮らそうと計画する。


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有馬頼寧伯爵の日記 大正08年01月06日

今日倉富に手紙を書いて外遊の事を計った。
私は父上様にも背き相談人にも背き妻子にも背き
有馬家にも背いて自分の理想を実現したいのだ。
そうするのが皆を安全にする唯一の道だと信じているのだ。しかしそれは到底実現できぬ事だ。
さりとて一人苦しんでいるのはあまりに愚の様に思われるから、
私は一人外国へ行ってその苦から逃れたいのだ。


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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正08年01月18日

*倉富は有馬伯爵家の相談役も務めていた。

有馬伯爵家職員橋爪慎吾の台詞

有馬頼寧が旧雇人ミドリとの関係を絶たず
ミドリと【暁鶏館】その他へ行きたるにあらざるやと思うべき形跡あり。


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倉富日記 大正08年01月21日

倉富と有馬頼寧の会話

倉富◆洋行の希望が実修業の目的より出る事にあらず、
他の事情の面倒なるためこれを避ける目的にて洋行を希望するつもりあらば賛成しがたし
現在の家状にては子供も数人あり、その教育等を夫人に一任するは
夫人の責任も軽からざるゆえ夫人の意向も聞き質す必要あり。
頼寧◆妻は正式に相談したる事にはあらざれども、
自分の健康さえよろしければ洋行しても異議なき趣を話したる事あり。
倉富◆ともかく今年04月より洋行するという様に急ぐ訳には参らざるゆえ、
今少し様子を見たるうえ思い立たれる様に致してはいかが。
頼寧◆農科大学より留学を命じる事になれば宮内省の都合も差し支えなかるべきにつき、
そのうちに農科大学の原煕教授らに
自分が私費にても洋行の希望を有しおる事を話しおく方よろしからんかとも思う。


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有馬日記 大正08年01月21日

倉富氏来訪。
「留学の事はそれの主たる理由が勉強ということなれば異存なきも、
その他の事情とあらば賛成しがたし。また4月と言うは時期早きに失するの嫌いあらば
もう少し延ばしては如何。また宮内省にてアメリカ留学を好まず」との事なり。
「よりては時期は6,7月頃にても良く、
アメリカ留学の事は学校よりの指定としてもらう様なさん」事を話し賛同を得、
4月に行かれぬは残念なるも、絶対に同意されぬという事にはあらざるゆえ辛抱すべし。


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有馬日記 大正08年02月06日

佐原に汽車の着いたのは9時に近かった。
今年になって佐原へ来るのは、これで3度目か4度目だ。
7日頃という約束ゆえもし留守であったらどうしようと考えながら着けば、
母さんが出て来られミドリさんは留守との事。待っているとすぐに帰ってきた。
「ほんとに嬉しいわ」という短い言葉がどんなに私の心を喜ばせただろうか。
そして例の様にその夜はほとんど一睡もせぬぐらい翌朝まで語り明かした。


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倉富日記 大正08年02月06日

倉富&有馬頼寧の上司東京帝大農学部教授原煕の会話

原◆頼寧より書状を送り「洋行の希望あり、
相談人も同意し父も承諾しおるにつき自分の意見を聞きたい」旨申し来りたり。
自分は洋行を止むる方よろしかるべしと思えども、すでに話が進みおるよう考えられるにつき、
一応君の話を聞きたる上に本人に話さんと思い来りたり。
倉富◆本人に対し大体において反対はいたしおらざるも、
本人が辛抱して勤学する事は望みがたく延期の事に話しおいたり。本人が君に相談したるは、
予が留学に反対したるにつき学校より指定してもらいたい希望にて相談したるものならんと思う。
原◆自分は本人の性質も知りおるつもりなり。本人はとにかく物に動きやすき弊あり。
頼寧と同学の友人がアメリカに在勤する者ある模様につき、
その者よりアメリカ行を勧めたる様の事にはあらざるやと思う。
目的を定めて出かければ効能あるも、さもなければ別段の効能なかるべし
これ以上は自分の考えをもって本人に話すことにいたすべし。


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有馬日記 大正08年02月07日

*2月6日は貞子夫人との結婚記念日であったにも関わらず、ミドリ宅に泊まる。

「今日も泊まっていかない?」と言われて振り切っても帰られず。
2月6日という記念日をとうとう忘れてしまった。
もう私の心は家を離れてこの新しい恋人の中に入ってしまった。


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倉富日記 大正08年02月08日

橋爪慎吾の台詞

流行感冒に罹り病院に入りたる女中ついに死去したり。
その手当等の事も頼寧不在のため夫人は困りおり。
ミドリが06日頃郷里より横浜に来る事になりおり、
頼寧はこれを周旋して学校に入れる事になりたる様につき、
多分そのために横浜に行きたるものなるべし。
ミドリの父が近日東京に来る趣につき人をしてミドリの結婚を勧めしめるつもりなり
さすればミドリと頼寧との関係につき父の意向もわかる事にならん。


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有馬日記 大正08年02月08日

一夜のつもりがだんだん長くなって今日でもう三夜を過ごした。
いつまでいてもキリのない事なので今日は思い切って帰る事にした。
大雪である。その中を停車場まで送って来て
汽車の出るのを名残惜しそうに見ている私のスウィート、なんと可愛い事だろう。

「やっと安心した」と言う貞子の言葉を聞いた時にはさすがに済まぬと思った。
しかし何と言っても私はミドリを捨てる事はできない。
私の生きている間は何物を犠牲にしても別れる事はできない。


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倉富日記 大正08年02月09日

橋爪慎吾の台詞

頼寧が05日より横浜へ行き昨夜10時頃帰りたる。
ミドリの父は永浜と懇意にて、ミドリを雇い入れる時は永浜が周旋したる。
ミドリの父は近日中上京するにつき、永浜をしてミドリの縁談を試みしむべし。
縁談の事はかねて父より依頼しおる趣なり。
さすれば父がミドリと頼寧との関係につき、いかに考えおるや大概わかるならんと思う。
頼寧はミドリの家に宿したる事あり。
この時ミドリは同室に寝たりとの事にて、さすればミドリの両親が知らざる訳なしと思われる

頼寧は女中ハナに対し頼寧とミドリとの間の書状の取次をなす事を依頼し、
ハナは左様なる事は絶対に致しがたしとして怒りを含みて拒絶したるところ、
是非承知せよと言いたる由ハナより聞いたり。


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有馬日記 大正08年02月12日

*渡米準備として頼寧は他の妾(芸者小鈴/富子)と手を切ろうとする。

新橋の例の人とはいよいよ手を切る決心をなせり。
関係してよりもはや5年の年月を経たり。
商売根性の染み込みたる人の到底真面目なる生活に入るべくもあらず。
贅沢なる習慣・野卑なる行為その他数え来れば、
ただ肉欲の目的物として以外なんらの価値あるを覚えず。


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有馬日記 大正08年02月17日

講義を終り急いで行く。いつもながらほんとにスウィートな人なり。
立派な教育を受け相当の家に生まれ両親もちゃんとしている事ゆえ、
この様な事にさえならずば立派な人の妻として暮らせるものを、
私のために長い未来を捨ててしまったと思えばほんとにほんとに気の毒で仕方がない。
しかし本人は今更そんな事は決して心配するに及ばぬ、
一生愛してさえもらう事ができればそれで満足と行っている。
また両親とても少しも悔やんではおられぬとの事だ。
自分のためにこんなにと思うと可哀想でたまらぬ。さりとて思い諦める事などはとてもとても。


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有馬日記 大正08年02月18日

もし外国行の駄目になった時はいったいどうすればよいのかしら。
本人を陰の人とするのがいかにも可哀想なのと両親や兄さんに済まぬのと
貞子に済まぬのを考えれば考えるほどつらくなってくる。どうしたらよいやら。


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有馬日記 大正08年02月20日

*ミドリは渡航準備のため横浜のYWCAの寮に入る。

横浜の寄宿は思ふたよりは良いとの事で安心した。
待合などに出入りする事は止めたくもあるし経済上から言っても不利益ゆえ、
横浜の山の手に家を借りそこで出会う様にした方が良かろうとの相談をした。
近い内に探しに行ってみようと思う。
誰にも秘密に実行せねばならぬのだから骨が折れる。
どうか神様のお助けで無事に遂行する事のできる様にしたいものと思う。


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倉富日記 大正08年02月22日

有馬伯爵家橋爪慎吾の報告

貞子夫人の生母岩波稲子
「夫人の懐妊中頼寧がミドリに挑みミドリより稲子に相談したる時、
稲子は自己が今日の境遇にあるは同様の原因によるにつき、
速やかに暇を取りてこの家を去るが得策なりとてミドリを去らしめたる事が原因にて
頼寧が稲子を疎外する様になりたる」

貞子夫人
頼寧が外出して所在不明なる事あるはミドリとの関係なるべし
ミドリの父が承諾するならば妾として雇い入れたき旨を話したる。稲子は自分の生母なるが、
稲子と頼寧との間円滑ならざるため自分が常に苦心し家内も円満ならず」

頼寧が欧米に遊ぶ希望を夫人に告げ、
夫人は「子供も多き事ゆえ3,4年の期限ある事ならぼとにかく無期限に外遊する事は」
と言いたるところ、頼寧は「3,4年ならばよろしきや」と言うにつき、
夫人は「それぐらいならばよろしからん」と言いたる事あり。

夫人が「所在不明の様なる事ありては困る」と言いたるに、
頼寧は「芸者小鈴とは既に手を切りたる」と言いたる。
夫人が「所在不明のごときありては外部に対して不面目なり。いかがすればよろしきや」
と言いたるところ、頼寧は「新橋の待合【菊月】に問えば所在はわかる」と言いたる。


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有馬日記 大正08年02月26日

午前中講義。1時頃菊池へ行きたるもなかなか来らず3時になりようやく来る。
今日は夕方帰宅すると言いたるも、相手が今日はゆっくりできると言うものを
帰るのも気の毒と思い、つい9時過ぎまでいた。
帰宅したのは10時過ぎであった。貞子にさんざん叱られた。
少しは家の事も考えてもらいたいと自分の信用も落ちる故、
少し真面目になってほしいとの事であった。
何だか日の経るにつれ、だんだん深い深いところに落ちて行くようだ。

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by oMUGIo | 2004-03-15 00:00 | 武家華族
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