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有馬伯爵家 久留米藩主 その4

●実子 静子 斎藤斉子爵夫人
●実子 頼秋 早逝
●実子 頼春 未婚
●実子 澄子 足利惇氏子爵夫人
●実子 正子 亀井茲建伯爵夫人
●実子 頼義 次代当主 
●庶子 泰


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有馬頼寧伯爵の日記 大正10年01月08日

秋さん〔頼秋〕が病気が全快しておらぬというのでまた自宅療養に帰ってきた。
私は初めから秋さんは軍人には適さぬと思っていたが、近頃特にその感がある。
語学と数学が嫌いだから砲兵などとても向かず、またあの優しい気質で軍人になれるかと思う。
しかしまた考えてみれば、それなら何が適するかというとそれも困る。


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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正10年10月18日

*倉富は有馬伯爵家の相談役も務めていた。

倉富&久邇宮家宮務監督栗田直八郎の会話

栗田◆頼寧の二女澄子を久邇宮の二男邦久王の配となさんと欲す。
倉富◆この事は君のみの考えなりや、久邇宮両殿下の望みなりや。
栗田◆両殿下の望みなり。
ただし邦久王は成年後は臣籍降下せらる事になるべきにつき、その事は有馬に告げおきくれよ。
倉富◆有馬の意を問うてこれを報ずべし。


*結局この縁談は成立しなかった。

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倉富日記 大正10年10月22日

栗田より依頼したる婚約の事を談し、
頼寧「この事は北白川宮成久王からも女子学習院の教師からも聞きたる事あり。
長女の婚約いまだ成らざるゆえなるべくは順を追うてと思いおる所なり」


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倉富日記 大正11年01月08日

栗田直八郎の台詞

有馬家には姉妹あり。いずれにてもよろしきも、姉の方を先にする方が都合よろし。
とにかく邦久王の意向を知る事が第一なり。
娘の写真も差し上げてよろしとて姉妹の写真も送られ、邦久王の写真も有馬家に送りあり。
姉の方は17歳にて邦久王と4歳違いにて俗説はこれを嫌う由。
しかし有馬家にて頓著なければ久邇宮家にては姉にてもよろしとの事なり。


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倉富日記 大正11年07月20日

倉富&有馬頼寧伯爵の会話

頼寧◆山階宮家宮務監督市来政方より自分の長女静子を山階芳麿侯爵に嫁せしむるよう
女子学習院の某に相談し、某より自分に相談したり。
静子は軍人は好まずと言いおるも勧め方によりては承諾せざる事もなかるべく思わるるも、
自分らの懸念は山階侯爵の体質なり。君は承知せざるや。
倉富◆詳知はせず。ただ身長は非常に高く肉は少なき方なり。
頼寧◆その通りなり。身長は5尺7寸とかにて体重は13貫何百目という事なり。
単に本人が強壮ならずという事だけならばさほど懸念せざるも、
父親は肺患なりしとの事なるゆえ懸念しおれり。
倉富◆邦久王よりもよろしからんと思えども
健康の程度がわからざるゆえ充分の調査を必要とすべし。


*結局この縁談は成立しなかった。

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倉富日記 大正11年09月02日

有馬伯爵家職員有馬秀雄の台詞 (有馬秀雄は有馬家の家族ではなく単なる職員)

頼秋一日所在不明になりたりとの事なり。
頼秋は学校に帰るとて家を出て、学校に帰らざりしとの事なり。


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倉富日記 大正11年09月22日

倉富&有馬伯爵家の相談役の一人仁田原重行子爵の台詞

仁田原◆頼秋中央幼年学校に帰るとて家を出て学校の門まで行きたるも、
門に入らずしてどこかに行きたり。青山本邸の方にては心配したれども所在わからず。
ほどなく帰り来るならんと思いその夜はそのままになしおきたるも、
帰り来らざりしゆえ大騒ぎとなり翌日自分を召いに来りたるゆえ、
心当りを尋ねたれども所在わからず大いに心配せり。
2日目の夜勝手口に来り小紙片に小書したる物を出し、
「これを父上に上げくれよ」と言いたる趣きにて、頼寧がこれを見たるところ
『学校へ帰るつもりにて出かけたるもどうしても学校に帰る気にならず、
荻窪の別邸に行きたるも留守番に会う事を好まず。
その夜は森の中にて明し、翌朝は留守番の目にかからざるうちに一番の電車にて東京に来り、
再び荻窪に行き一日を暮してその夜に青山本邸に帰りたる』

その後頼寧より自分に「頼秋の養育は自分が大いに誤りたり。君より充分に説諭しくれよ」
との事なりしにつき自分より頼秋に話しみたるところ、
頼秋は「学校に行かずとも学問はできる。いかなる学校にも行く事を好まず。
文学をもって身を立つるつもり」との事にて、
自分より「伯爵家の長男にて左のごとき誤りたる考えにては不可なる」旨を諭し、
父母に心配をかける事の非を説きたるところ、「爵などは今後20年間ぐらいにはなくなるべく、
一時父母に心配をかけても後年事を成せば不孝にはあらず」と言いまったく話にならず。

これにはよほど困りたるものと見え、頼寧は洋行させたき旨を話したり。
よりて自分より「ドイツなどに行けば堕落するだけにて何の効もなし。どこに遣るや」
頼寧は「頼寧は充分に英語を専修せしめイギリスに遣る」希望なる様なり。

倉富◆学校を辞むる事は同意しがたし。
学校の選択は随意なるも、ぜひとも学校には入れざるべからず。
洋行は学力なくして行きても効能なく、有害なる結果を生ずべきにつき同意せず。


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有馬日記 大正11月11月12日

仁田原重行子爵の台詞

静子も決して油断できず
今夏貞子夫人と共に避暑しおりたるが、
その時甘露寺受長の弟甘露寺方房と交際したる事ある由。
帰京後静子より甘露寺に送る郵書を水野〔有馬家の老女〕に命じて投函せしめたるゆえ、
水野は「これを見たるに『先頃の約は都合あり。これを取り消したし』旨を書きある趣にて、
婚約でも為しおりたるものならん。そのまま捨てんかとも思いたるも、
やはり先方へ届く方よろしと思いこれを投函したり」との談をなせり。
自分は「その様な事は両親に話しおく方がよろしきにあらずや」と言いたるも、水野は承諾せず。
「このごとき事を話すは不利益になるだけにて少しももっともと思われず。
これまでにも既にその事例あるにつき、これを話さず」と言えり。

また頼秋もなかなか油断ならず
水野が「本人ももとより婦人に近づく望みあるが、雇人のほうより求ること多きゆえ
ちょっとも油断しがたく、とかく自分が一緒にいる事は嫌わるる」と言いおりたり。


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倉富日記 大正12年03月26日

有馬&有馬頼寧の会話

頼寧◆長女静子は自分より言うはおかしき事ながら、
学習院にては評判よろしく「この如き人こそ皇族の妃なるべき人ならん」との噂ある趣なり。
もし秩父宮の妃となる事を得れば幸の事なり。ともかく君に談しおく方よろしからん。
倉富◆先般話ありたる久邇宮邦久王および山階芳麿侯爵との結婚話は、
双方とも健康充分ならざる様なるにつき止めた方がよろしかりし。
頼寧◆只今の話が成立すれば結構なり。
妻貞子〔元皇族〕の関係もある事につき、望まれざる事にはあらざるならんと思わるる。


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倉富日記 大正12年03月31日

倉富&皇后宮大夫大森鍾一の会話

倉富◆頼寧の夫人は北白川宮家より出でたる人なるが、
娘に女子学習院高等科に入りおる者あり。
もし秩父宮の妃と為る事を得る様の機会あらば幸なり。明日は女子学習院の卒業式にて
君は貞明皇后に供奉して学習院に行くべきにつきこれを見てくれよ。
大森◆実は写真でも見たしとの談は無きにあらず。しかしそれは有馬家の娘のみにあらず。
5,6人の写真を見たしと言うことになれり。しかし只今より乗り気になりては困る


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倉富日記 大正12年05月05日

倉富&仁田原重行の会話

仁田原◆静子を入江為守の子為常に配しては如何。
倉富◆静子の事については、予は秘密に聞きおる事あり。他に嫁せしたき希望あり。
その方は漠然たる希望にて少しも見込立ちおらず。
しかしその希望ある以上は入江の方に約束する事は出来ざるならん。
仁田原◆いずこなりや。
倉富◆【のぎへん】の字なり〔=秩父宮〕。


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倉富日記 大正12年08月26日

有馬頼寧の台詞

先頃貞明皇后より弟安藤信昭に対し静子・澄子の写真を望む旨の御話あり、
安藤より姉妹の写真を差し上ぐ。
安藤の推察にては静子よりも澄子の方が思召ある様なりとの事なるが、年齢の関係ならん。
澄子の写真は額に髪がかぶりおり充分に顔容が分からずとの御話にて更に1枚を出せり。
その時「決定もせざる事に写真を幾枚も取りては気の毒なり」との御話ありたる趣なり。


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倉富日記 大正13年02月23日

倉富&宮内官僚渡辺直達の会話

渡部◆宮内官僚仙石政敬の妻は久邇宮より行きおり、
岡山の池田侯爵家にも久邇宮より行きたるゆえ、当主池田宣政は仙石の妻の甥に当る訳なり。
仙石より自分に
「宣政は22,3歳にて早く結婚せしむる必要あり。頼寧氏の二女澄子をもらいたし」との希望あり。
倉富◆頼寧は長女の縁談決せざる内は二女の縁談を為す事を好まざる様の話なるにつき、
多分承諾せられざるならん。


*結局この縁談は成立しなかった。

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倉富日記 大正13年02月26日

渡部直達の台詞

澄子を池田宣政にもらいたき事は、
頼寧に問いたるところ「澄子は既に他に婚約ある」旨をもって断りたる趣なり。


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倉富日記 大正13年03月02日

頼寧は澄子を秩父宮の妃に為さんと欲しおると同時に、
妹がその通りになれば姉静子も権衡上相当の所に嫁さしむる必要ありとて、
久邇宮朝融王の婚約が破棄せらるるならば、その跡に静子を嫁せしめたき事を望みおる。
朝融王の婚約解除問題は非常に困難なる事となりおるゆえ、
たとえ解除と為りてもその跡に嫁せしむる事は面白からざるならんと思う。


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倉富日記 大正13年04月10日

倉富&有馬頼寧の会話

倉富◆朝融王の婚約解除問題は大変に面倒となり容易に解決すべき模様にあらず。
婚約解除を待ち、その方の婚約を図らんとする事は面白からざるべしと思う。
有馬◆この事については自分も迷いおれり。
静子が軍人を好まずと言うにつき、なるべくはその希望を達せしめたしと思いおれり。
前年静子が某伯爵家の弟と面会したる事あり。その後静子をもらいたき旨申し来りたるが、
同人は弟にて有爵者と為らざる訳なり。その後同人は母の実家某家を継ぐ事となる談あり。
その家には妻の実家なる島津家より養いたる娘あるが非常なる醜女にて、
同人はこれを妻とする事ならば養子には行かずと言い、
妻はどこより迎えてもよろしという事になりおり。
同人の人物は相当なる人にてその点には異存なきもいまだ決しおらず。
また壬生基義伯爵の子基泰にもらいたしとの談ありたるも、これは軍人なるゆえ一応拒絶せり。
要するに妹の方が決せざるゆえ姉の方もその権衡に迷いおる次第なり。


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倉富日記 大正13年11月05日

皇后宮大夫大森鍾一の台詞

近日伝聞したる所にては、有馬家にては他より結婚の申込ありたるもこれを拒絶したりとの事なり。
万一先年聞きたる様の事をあてにして他の申込を拒絶する事ありては所謂当て違いとなるべし。
内議にては決して左様の運びになりおらず。これは有馬家の事のみにあらず。
他にも2,3の噂ありたる所はありたるも、いずれも取り留まりたる事にあらず。
万一左様の事をあてにしておりては気の毒なるゆえ、一応注意す。


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倉富日記 大正13年12月01日

有馬貞子夫人

倉富◆前田家より静子をもらいに来りたるや。
貞子◆生花の師匠なる婦人あり「静子の写真を借りたし。
先方はこれを秘しくれよとの事」につきこれを領し、ただ写真を貸したり。
これは本年06月頃の事なりしが、間もなく写真を返し来り別に何事もなきにつき
そのままの事に思いおりたるところ、近頃に至り先方にて充分の相談を為し、
ぜひ静子を娶りたきにつき承諾を請う旨その婦人より申し来りたり。
しかるに頼寧は「前田には既に相続人も定まりおり、そこに静子を遣せば
静子に欠点ありとの疑いを招くは必定につき断然これを断るべし」との事なりしも、
自分はあまりすぐに断るも如何と思い4,5日猶予を置きて単に断る旨をその婦人に告げたるに、
その後断る理由を聞きたき旨更に申し来りたるにつき、
やむを得ず「静子と前田とはあまり年齢が違うにつき云々」を告げたり。
頼寧は只今の所にては静子は朝融王の妃と為す事を考えおる様なり。また頼寧は
「今後皇室を守るべき者は自分らだけになるにつき、なるべく皇室に接近する手段を取りたし。
ついては澄子は秩父宮の妃と為す事を望む」と言いおれり。
静子の事については自分の妹武子の嫁しおる保科家の妹寧子が岩崎久弥男爵に嫁しおり、
その子の嫁として静子を貰いたき模様なるも、
岩崎の妻は「岩崎と有馬とは家風も違うゆえ進みて話を為す事も躊躇しおるが、
有馬にて承諾するならば必ず喜んで貰うならん」と言いおる由。
頼寧は「岩崎と自分らとは主義も立場も異なる」とは言いおるが、
また「婚姻と主義とは別の事なり」とも言いおれり。
もはや静子は二十歳なるにつき、あまり延ばす事も出来ず。
倉富◆朝融王の事は種々の推測あり。朝融王は今すぐに結婚せらるる訳にはいかざるべく、
また朝融王はその性質飽きやすき方の様なる説もあり。
方々予はこちらは止めらるる方よろしかるべき旨を談したる事あり。
秩父宮は来年05月頃より御洋行の事は内定しおる模様なり。
貞明皇后はその前に内定だけはなされたき思召ならんと思わるるが、如何なるべきや。


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有馬頼寧伯爵の日記 昭和10年02月20日

*澄子は妻と死別した朝香宮鳩彦王の後妻とする話が持ち上がっていた。
結局この縁談は成立しなかった。

内親王を母とせられた御子様方に、今さら澄子を母と呼ばせるにしのびずとの事はもっともと思う。
竹田宮昌子妃の御反対に関しては、自分に対する御憎悪かとも思う。

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有馬日記 昭和10年05月28日

*正子と亀井茲建の縁談が持ち上がる。

亀井家の方、話順調に進行。
両方の母付き添いのうえ見合いをすること好都合なるべく、
来る2日の日曜ということに大体定まるらし。
この縁談はおそらくまとまるべしと皆考えている。まとまってくれれば良いと思う。

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有馬日記 昭和10年06月03日

正子、昨夜より貞子より意向を聞きしに承諾せず貞子苦慮。
急に静子を呼び、静子よりよく話してもらう。
その結果承諾することになり一同安心す。

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有馬日記 昭和10年12月17日

*澄子に白鷹酒造の辰巳氏との縁談が持ち上がる

京都ホテルに入り、正午瓢亭に行く。辰馬悦蔵氏、喬男氏それに母堂。
悦蔵氏は愛想も良く文学士なれば教養もあり良き人物である。
喬男氏は至極好人物のように見受けられる。
母堂もしっかりしたところあるも優しき人にてよろしく皆印象良し。
ただ容貌のあまり良からぬ点が澄子の気に入るかどうか心配なり。

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有馬日記 昭和10年12月19日

澄子の決心つかず。
関西に行くことは覚悟していたが、本人が気に入らざりしためその決心も鈍り、
結局は断りたいとのこと。

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有馬日記 昭和11年02月01日

正子のところに寄り、澄子同道帰宅す。
亀井さんの奥さんの評判悪いとのこと。
女の理知的なのはとかく悪い。

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有馬日記 昭和11年04月01日

澄さんの縁談につき、足利さんの話あり。前から目はつけていた。
本人は良いと思うが父子爵が礼遇停止であるから、それがなんとかならねば困る。
わずかな借財なら始末をして隠居してもらい、礼遇停止を解いてもらえば良いと思う。

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有馬日記 昭和11年06月30日

澄子、足利さんに面会、結果良好。これでまとまれば大安心である。

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有馬頼義

頼春は戦争が始まる頃から結核に冒された。
10年前父が熱海桃山に別荘を建てた時、
頼春がちょうど病状を悪化させてそこへ行ったきりになった。
父の口から頼春の名前がまったく出なくなったのはその頃からであった。
戦争がはげしくなった時父は頼春に手紙をやり
「有馬家の財産はいくばくもないから療養費を節約してほしい」と書いた。
頼春は私にその手紙を見せて泣いたことがある。
「薬代が高いんだ。僕は何も贅沢をしているんじゃない。
有馬家の財産が無いといっても、
それはお父様がみんな政治につぎ込んでしまったからじゃないか。
療養費を節約しろと言うのは、早く死ねと言うことだ」
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by oMUGIo | 2004-03-14 00:00 | 武家華族
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