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by oMUGIo
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小松宮家 その2

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頼子妃の甥 有馬頼寧伯爵

その頃宮家というものは生活は豊かではありませんでした。
例えばその頃の宮家の妃となる方は、多く金のある大名から迎えられていました。
それは生活が豊かでなかったからで、
私の家でも小松宮へ妃殿下を差し上げたため相当多くの費用を使った事は事実で、
妃殿下のお里で面倒を見なければ宮殿下の御洋行の費用など出所がなかったのです。


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宮内官僚 長崎省吾

聖上の御厳格に反し皇族方はとかく御品行よろしからず、恐れ入るなり。
なかんずく小松宮彰仁親王はわけてのことなり
過日も高崎正風小松宮別当来り言うは、とても御補佐はできず閉口なりと。


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宮内大臣 土方久元伯爵

小松宮彰仁親王は一体嫉妬深く、その頃より今日に至るまで大不平にて、
伏見家のことは何にてもとかく御妨げあり、少しも円満ならず。

〔彰仁親王は〕伊勢神宮の祭主を御懇望あらせられ候らえども、
なにぶん御不行跡の御事なれば、(明治天皇は)祭主はしかるべからざるとの事より、
賀陽宮邦憲王に仰せつけられ候。


「その頃より今日に至るまで大不平にて」というのは、
父伏見宮邦家親王が隠居した時、自分ではなく弟の貞愛親王が当主となったことである。
邦家親王は子沢山で、男女合わせて50人以上の子供がいた。
しかし彰仁親王は側室の生んだ庶子で、
弟の貞愛親王は正妻が生んだ嫡子であるから仕方のないことなのである。
事実彰仁親王より年上の庶子の兄たちも伏見宮の当主となれず別宮を創設している。
しかし当たり前のことを辛抱できないのが彰仁親王なので、
伏見宮家はその後も何かと彰仁親王に絡まれることになる。

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明治天皇紀 明治22年02月14日

有栖川宮威仁親王その宿願を聴され再び欧州差遣の命を蒙るや、
妃慰子かねてより視察の希望あるをもって同行せんことを欲す。
天皇すぐにこれを斥け「婦女の洋行はいたずらに西欧の物質文化に眩惑せられ、
娯楽または奢侈の悪風を助長するに過ぎず」と為して敢えて聴したまうの意なし。
先年小松宮彰仁親王、妃を伴いて欧州に抵しが、
いたずらに宝石・衣類等を購いしが如き結果にかんがみたまうなり。
父有栖川熾仁親王さらにこれを請えどもついに肯じたまわず。
よりて親王、自費をもって同行せしめんことを請うに及び、
天皇はじめて「そは勝手たるべし」との仰せあり。
これにおいておいて威仁親王の願意ようやく達し、
この年01月10日慰子の徴行して侯爵前田利嗣夫婦と共に洋行するを許したまう。
利嗣は慰子の兄なるをもって、慰子これと同行しその費は利嗣をして支弁せしむることとせるなり。


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明治天皇紀 明治36年01月31日

小松宮彰仁親王の請を充し依仁親王をして彰仁親王の継嗣たる事を止め、
別に一戸を立てて東伏見宮と称せしめたまう。
彰仁親王男子なきをもって故北白川能久親王の第四子輝久王を養うこと子の如くす。
依仁親王は既に継嗣と為れりといえども彰仁親王はこれに遺産を伝うるの意なく
ついに自ら臣籍に下り別に養子を納れてその跡を継がしめんと欲し、
去年04月まさにイギリスに航せんとするに臨み宮内大臣田中光顕子爵に告げ詮議するに、
「もし輝久王をして遺産を継がしめ、これを臣籍に列して侯爵を授け、
小松氏を称するを得しめば、自ら臣籍に下るの一事を断念すべく、
依仁親王には別に家号を賜りて一戸を立てしめんと欲する」の旨をもってす。
こと宸聴に達す。天皇、その情を憐みてこれを充し、ついにこの恩命を下したまえるなり。


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明治天皇紀 明治40年02月26日

北白川宮能久王の寡妃富子および小松宮彰仁親王の寡妃頼子相議し、
能久親王の子輝久王をもって彰仁親王の遺跡を継がしめんがため、
皇族の身位を改むることなくその嗣子と為さんと欲し上書してこれを請う。
天皇、侍従長侯爵徳大寺実則をして伊藤博文の意見を徴せしめたまう。
伊藤以為らく「皇族の養子を許さざるは皇室典範に明文あり。
ゆえに皇族の身位を改めずしてその嗣子と為すことは則ち不可なり。
ただし勅旨または情願をもってこれを臣籍に降し、授くるに公侯爵中の一をもってし、
なお適当の資産を下賜し、もってその嗣と為さば則ち可ならん」と。
天皇、伊藤の意見に基づき翌日徳大寺をして命を宮内大臣子爵田中光顕に伝え、
富子・頼子二妃の情願を斥け、輝久王を臣籍に降ろして公侯爵中の一を授け、
小松の家号を賜い、彰仁親王の遺跡を継がしむべき旨懇諭せしめたまう。


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彰仁親王は子供が無かったため異腹の弟依仁親王を養子に迎えていた。
当然小松宮家は依仁親王によって継がれるはずであったが、
突然彰仁親王は自分の臣籍降下と北白川宮輝久王を養子にすることを主張する。
輝久王は彰仁親王と同腹の弟北白川能久親王が側室に生ませた子である。

当然宮内大臣はこれをしりぞける。
すると今度は輝久王だけでも臣籍降下させて侯爵にして自分の遺産を相続させてくれたら、
自分の臣籍降下はあきらめると主張する。
根負けした政府はこれを認め、依仁親王には東伏見宮を創設した。

ところが東伏見宮が創設された直後に彰仁親王が死亡、小松宮家の当主の座が空白となった。
そこで今度は彰仁親王の妻頼子妃と北白川宮能久親王の妻富子妃の二人が、
輝久王を臣籍降下させず皇族のまま小松宮家を相続させたいと主張した。
明治天皇はこれを一蹴、当初の予定通り輝久王は臣籍降下して小松輝久侯爵となった。

彰仁親王がそこまで依仁親王に相続させることを嫌がった理由ははっきりしていないが、
彰仁親王と依仁親王は別々の側室の子、彰仁親王と能久親王は同じ側室の子、
異腹の弟ではなく同腹の弟の子に遺産を遺したかったのかもしれない。

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by oMUGIo | 2001-04-12 00:00 | 皇族
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