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カテゴリ:公家華族( 69 )

紀男爵家 日前神宮・國懸神宮

◆紀俊尚
1835-1896 天保06-明治29 61歳没


■妻 松本宗有の娘 鶴子
1847-1911 弘化04-明治44 64歳没


●俊秀 次代当主
●俊
●峰子 木下共治夫人





◆紀俊秀
1870-1940 明治03-昭和15 70歳没
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■妻 士族山本晟忠の娘 美稔
1875-1956 明治08-昭和31 81歳没
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●富美子 婿養子を迎え次代当主とする
●富久子 佐々木行篤夫人
●富佐子
●富喜子 西篤二夫人





◆紀俊忠
1892- 明治25-
もと今園国映男爵の子 婿養子になる


■妻 先代俊秀の娘 富美子
1897- 明治30-
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●俊行
●俊道
●豊雄
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by oMUGIo | 2002-03-02 00:00 | 公家華族

千家男爵家 出雲大社

◆千家尊澄
1816-1878


■妻 広橋光成の娘 富子/婦美子
1825-1903 


●護   千家武主夫人
●尊福  次代当主
●尊賀
●与利  戸田忠幸夫人
●登喜  有沢権五郎室夫人
●尊紀  次々代当主
●奈保子 藤波言忠子爵の4/4番目の妻
●真佐子 吉川経健子爵の3/4番目の妻


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萬朝報 明治31年08月02日

神官千家尊賀はかつて炭鉱鉄道の社員となり北海道に出張中、
小樽南部屋の芸妓工藤ミス(34)を買い馴染みて身請けし東京に連れ来たりしが、
これがため妻(岩村高俊男爵夫人の姉)を離別し今は京橋区山城町にミスと同住す。

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◆千家尊福
1845-1918 弘化02-大正07 73歳没

*政界入りし借金がかさむと、
「政治のために家を傾けたのだから」と明治天皇に借金を申し込んだことがある。


*妻子のあることを隠して日本画家の小川梅崖に子供を生ませた。
父親に反抗して詩人となった千家元麿である。
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■妻 公家伏原宣諭の娘 俊子
1851- 嘉永04-
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『横から見た華族物語』  昭和07年出版

千家尊福男爵は白皙にして柔和な顔とふさふさした胸まで垂れる白ヒゲとを見ると
さながら神の権化であるように思われたが、そのくせ案外野心家で何事かを企て
それを仕遂げんとするにあたり運動の巧妙なことは確かに活神力があると噂された。

彼は初期以来貴族院に議席を有し、
最後の目的は木曜会を踏み台にして大臣の椅子に登ってみる点にあった。
第一次西園寺内閣組織の時木曜会から一人を抜いて入閣せしめることとなったが、
お鉢は久しく待望している彼に回らずして松岡康毅の方へ回ってしまった。
彼は松岡氏の入閣を羨望すること一通りではなくその結果松岡氏に敵意を挟むようになったが、
幾ほどもなく入閣し司法大臣の椅子を与えられた。
多年の願望が成就した千家男爵は天地を礼拝せんばかりに歓喜し
内閣の運命いかんを顧みる暇もなかったが、
入閣後わずか4ヶ月にして倒閣し栄華の跡も一朝の夢と化してしまった。
しかも飛び入り大臣料として高価な代金を費やし
莫大な負債ににっちもさっちも動けなくなったなどは、ただ気の毒と申すよりほかない。

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●国子  毛利元忠子爵夫人
●信子  実業家北岡鶴松夫人
●松麿
●元麿
●多嘉子 尾崎洵盛男爵夫人
●英麿  千家尊愛の娘喜久と結婚、千家尊有に改名
●一子  次々代当主 千家尊統夫人
●広子  岸周平夫人
●幸麿  千家尊愛の養子になる
●寿子  藤井厚二夫人
●知子
●尊建  金子三四郎の娘裕子と結婚
●厚子
●顕子  松浦昴夫人
●経麿  千家尊愛の娘の沢子の婿養子になる
●哲麿  千家忠の養子になる 医学者大瀧潤象の娘孝子と結婚
●極子  菅原太郎夫人


●多嘉子 尾崎洵盛男爵夫人
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●広子 岸周平夫人
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千家尊福の三男鯱麿は平民山本シズと恋仲になるが、周囲から反対される。
大正2年4月10日、二人は列車に飛び込み鉄道心中をする。
二人とも死亡したが、縁結びの神である出雲大社の息子が心中というのはマズイのか
鯱麿の名前は家系図から消されている。

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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正10年10月20日

宮内官僚酒巻芳男『面白倶楽部』なる雑誌と他の雑誌とを持ち来りてこれを示す。
雑誌には千家尊福の娘にて毛利家に嫁したる国子なる者、
寡婦となりたる後その妹多嘉子の夫尾崎洵盛男爵と通じたる事実を詳記したる物なり。
予これを閲したる後、尾崎の品行を調査する事を酒巻に命ず。


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倉富日記 大正11年02月23日

倉富&宮内大臣牧野伸顕伯爵の会話

牧野◆尾崎洵盛男爵がその妻の姉毛利国子と醜行あることは事実なる様なり。
倉富◆尾崎の妻多嘉子が夫と姉との関係を周旋しおる様な形跡ある事を不思議に思う。
牧野◆聞くところによれば妻は一人にては耐え難きゆえ、姉との関係を喜びおるとの事なり。

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◆千家尊紀
1860-1911
先代尊福の弟


■前妻 西四辻公業子爵 直子
1862-


■後妻 松平忠和子爵の娘 淑子
1875-1932


●福麿  次代当主 千家尊統となる
●鉄麿
●勇子  清岡公張子爵の子清岡真彦夫人
●照子
●鋼麿  先代尊福の娘厚子と結婚して千家尊宣となる・木下俊哲子爵の娘政子と再婚
●義子  法学者稲川次郎夫人
●活麿  尾崎洵盛男爵の娘華子と結婚・イトコ結婚
●恒麿
●千代子 松平忠諒子爵夫人
●正麿


●勇子 清岡公張子爵の子清岡真彦夫人
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●照子
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◆千家尊統 
1885- 明治18-


■妻 先々代尊福の娘 一子 イトコ結婚
1893- 明治26-


●松麿
●尊祀  次代当主
●富佐子 中丸一郎/中平一郎夫人
●致子  坂本章一夫人
●遂彦  上原勝の娘喜代野と結婚
●克雄
●達彦  伊藤博精公爵の娘文子と結婚
●恭子





◆千家尊祀
1913-2002


■妻 中山輔親侯爵の娘 孝子
1919-


●純子
●尊祐
●曄子
●隆比古
●和比古
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by oMUGIo | 2002-03-01 00:00 | 公家華族

柳原伯爵家 名家 その3

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白蓮が書いた伊藤伝右衛門への絶縁状の元となった原稿 ※抜粋

私は今、貴方の妻として最後の手紙を差し上げるのです。
私がこの手紙を上げるということは突然であるかもしれませんが、
私としてはむしろ当然の結果にほかならないのです。
あるいは驚かれるでしょうが、
静かに私のこれから申し上げることを一通りお聞き下さいましたなら、
私が貴方からして導かれ
遂に今日に至ったものだと言うこともよくお解りになるだろうと存じます。

そもそも私と貴方との結婚当時からを顧み、
なぜ私がこの道を取るより他に致し方がなかったかということを
よくお考えになっていただきたいと思います。
御承知の通り私が貴方のところへ嫁したのは、
私にとっては不幸な最初の縁から離れてようよう普通の女としての道をも学び、
今度こそは平和な家庭に本当の愛を受けて生きたいと願っていました。
たまたま縁あって貴方の所へ嫁すことに定まりました時、
私としては年こそは余りに隔てあるものの、
それもかえってこの身を大切にして下さるに相違なく、
学問のないことも聞いたれど、自分の愛と誠をもって足りない所は補って
貴方を少しでも大きくしてあげたいと思っておりました。
言うまでもなく、
貴方はまず誰よりも強く自分を第一に愛していただけるものと信じていたればこそです。

あなたがどのように待遇して下されたかという事を思い出す時、
私はいつでも涙ぐむばかりです。
家庭というものに対しても、
足らぬながらも主婦としての立場を思い相当考えも持って来ました。
しかるにその期待は全く裏切られて、
そこにはすでに私の入るより以前からいる女サキがほとんど主婦としての実権を握り、
あまつさえ貴方とは普通の主従の関係とはどうしても思えぬ点がありました。
貴方が建設された富を背景としての社会奉仕の理想どころか、
私はまずこの意外な家庭の空気に驚かされてしまいました。
それは貴方が私よりも彼女を愛しておられたからです。
ことあるごとに常に貴方はサキの味方でした。
私という貴方の妻の価値は一人の下女にすら及ばぬのでした。

お別れにのぞんで一言申し上げます。
十年の間、欠点の多いこの私を養ってくだされた御恩を謝します。
この手紙は今更貴方を責めようとして長々しく書いたのではありませんが、
長く胸に畳んでいたる事を一通り申し述べて貴方の最後の御理解を願うのです。
私の無き後の御家庭は、かえって平和であろうと存じます。
貴方としても御心配が少なくなり、
何事も私の愛する者は憎く私の嫌いな者は可愛いという不思議、
貴方のその一番私に辛かった御心持ちも、
私さえ居なければ家族の者のどんなにか幸福となることでしょう。

女心というものは、
真に愛しておやりなさりさえすれば心からお慕い申すようになる事は必定。
なにとぞこれからはもう少し女というものを価値つけて御覧なさるよう、
息子の為にもまた貴方の御為にもお願い申しておきます。

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大阪朝日新聞大正10年(1921)10月22日夕刊に掲載された絶縁状 ※抜粋

*白蓮の原稿を元に、宮崎龍介と仲間たちが書き直したもの

私は今、貴方の妻として最後の手紙を差し上げます。
私がこの手紙を差し上げるということは貴方にとって突然であるかもしれませんが、
私としては当然の結果にほかならないのでございます。

御承知の通り結婚当初から貴方と私との間には全く愛と理解とを欠いていました。
しかし私は愚かにもこの結婚を有意義ならしめ、
でき得る限り愛と力とをこの内に見出していきたいと期待し、かつ努力しようと決心しました。
私がはかない期待を抱いて東京から九州へ参りましてから今はもう十年になりますが、
その間の私の生活はただやるせない涙をもっておおわれ、
私の期待はすべて裏切られ、私の努力はすべて水泡に帰しました。

貴方の家庭は私の全く予期しない複雑なものでありました。
私はここにくどくどしくは申しませんが、貴方に仕えている多くの女性の中には、
貴方との間に単なる主従関係のみが存在するとは思えないものもありました。
貴方の家庭で主婦の実権を全く他の女性に奪われていたこともありました。
それも貴方の御意志であったことは勿論です。
私はこの意外な家庭の空気に驚いたものです。
こういう状態において貴方も私との間に真の愛や理解のありようはずがありません。
私がこれらのことにつきしばしば漏らした不平や反抗に対して、
貴方はあるいは離別するとか里方に預けるとか申されました。
実に冷酷な態度をとられたことをお忘れにはなりますまい。
また、かなり複雑な家庭が生むさまざまな出来事に対しても常に貴方の愛はなく、
したがって妻としての価値をを認められない、
私がどんなに頼り少なく寂しい日を送ったかはよもや御存知ないはずはないと存じます。

私は折々我が身の不幸をはかなんで死を考えたこともありました。
しかし私はでき得る限り苦悩と憂愁とを抑えて今日まで参りました。
その不遇なる運命を慰めるものはただ歌と詩とのみでありました。
愛なき結婚が生んだ不遇とこの不遇から受けた痛手のために、
私の生涯はしょせん暗い暮らしのうちに終わるものとあきらめたこともありました。
しかし幸いにして私には一人の愛する人が与えられ、
そして私はその愛によって今復活しようとしておるのであります。
このままにしておいては貴方に対して罪ならぬ罪を犯すことになることを怖れます。
もはや今日は、
私の良心の命じるままに不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機に臨みました。
すなわち、虚偽を去り真実につく時が参りました。
よって、
この手紙により私は金力をもって女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の決別を告げます。
私は私の個性の自由と尊貴を守り、かつ、つちかうために貴方の許を離れます。
長い間私を養育下さった御配慮に対しては厚く御礼を申し上げます。

追伸
私の宝石類を書留郵便で返送いたします。
私の実印はお送りいたしませんが、
もし私の名義となっているものがありましたら、
その名義変更の為にはいつでも捺印いたします。

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大阪毎日新聞大正10年(1921)10月25日~28日、
4回に渡って掲載された伊藤伝右衛門の反論文 ※抜粋

※当時の総理大臣の月給は1,000円

燁子!お前が俺に送った絶縁状というものはまだ手にしていないが、
もし新聞に出た通りのものであったら、ずいぶん思い切って侮辱したものだ。
妻から夫へ離縁状を叩きつけたということも初めてなら、
それが本人の手に渡らない先に堂々と新聞紙に現れたというのも不思議なことだ。
俺はこの記事を新聞で見て一時はかなり興奮した。しかし今は少し落ち着いて、
静かに考えるとお前という一異分子を除き去った伊藤一家が
いかに今後円満に一家団欒の実を挙げ得るかということを思って、
かえって俺自身としては将来に非常な心安さを感じている。

お前から送ったと伝えられる絶縁状を見ると、
私としても言い分を何かの機会に言ってしまいたくなってくる。
そもそも、お前との結婚問題からが不自然なものであった。
当時妻を亡くした俺には、
お前より前に京都の某家との結婚問題が起きてそちらがほとんどまとまりかけていた。
そこへふとお前の話が持ち上がり、
京都のあまり裕福でない華族に嫁いでいて、
貧しい生活から逃げるように柳原家へ帰った出戻りの娘であるが、
貧しさには馴れている妾腹の子で母は芸妓だから、
という申し込みで上野の精養軒で見合いをした。
そこで初めてお前というものに会った。
お前はこの日、見合いということを気づかなかったらしい。
それからその晩有楽座へ来てくれということで、
その劇場では柳原伯爵夫妻に初めて会った。
追って話を進めることにして九州に帰ってくると、
幸袋の家へ帰りつかぬ前に最初の橋渡しであった得能さんから電報が来ていて、
話がまとまったからすぐ式を挙げたいとあったので、
まったく狐を馬に乗せたような気がした。

そして結納の取り交わせを済ませたが、
この結婚は最初からあまりいい都合に運ばなかった。
若松にいた某が今度の黄金結婚を東京の新聞が書くと言っていると言って、
その口止め料として相当の金高を要求した。
俺は一も二もなくはねつけたが、
その結果この男がいい加減の材料を東京の某新聞社に売って、
そこで燁子の身代金として何万円かを柳原家へ送っただの、
それは義光伯爵の貴族院議員選挙の運動費に使うだの、
伊藤は金子によって権門を買うのだなどと書かれた。
俺はいい気はしなかったので急に嫌気が差しすぐに破談を申し込んだが、
間に入る人々になだめられてとうとう結婚式を挙げた。
今考えるとあの時俺が言い張ったら、十年という長い間の苦しい夢も現れなかったであろう。
柳原家へは俺としてはお前のためにビタ一文送ったことはない。
この風説は柳原さんにお気の毒なことと思っている。

結婚の第一日、一平民の、お前から言うと一賎民の私の頭に
不思議に感じたことがあった。
式が終わって自動車で一緒にに旅館へ引きあげてきた時、
お前はどうしたのか部屋の片隅でしくしくと泣いた。
俺は実家を離れる小さい娘心の涙かと思ったが、この涙は自動車に乗る時、
一平民たる俺が華族出の妻を後にして先に乗ったという事がわかって、
実際これは大変な妻をもらったと思った。
家庭というものをまるで知らず、
当然自分は貴族の娘として尊敬されるものとのみ考えていたお前の単純さは、
一平民から血の汗を絞ってやっと今日の地位を得た人間、
世間というものを知り過ぎている俺にとっては、叱ったり諭したりしなければならなかった。
それを叱れば、お前はそれを虐待だと言って泣いた。

俺の家庭の複雑なことは、はじめからお前がよく知っているはずだ。
妹の子供があること、その他家族の模様は、
結婚に先立って逐一柳原家に書札を入れて明らかにしてある。
かえってお前が北小路家で産み落としたという子供のことは
俺には何も告げられてなかった。
俺に隠されていた北小路家の子供についても毎月学費を送ってある。
勉強中の当人の意志も尊重したいということで、
俺は申し出の30円の仕送りを別に与えていた。
当時小さかった八郎は生れた時から亡くなった妹が始終連れてきては、
よく我が子のように抱いたものだったから俺には一番可愛かった。
家へ引き取って育てることになってからはことに自分の子供のような気がした。
夜なぞその子を一緒に抱いて寝たらと言うと、
お前は平民の子を抱いて寝るということを死ぬよりつらい屈辱だといって声をあげて泣いた。
俺の家はすっかり暗くなった。

お前が俺の家に来てから、第一に起こった大きな出来事は例のおさきの問題だった。
おさきのことも、おさきだけの仕事が立ち働きがお前にできれば少しも差し支えがないのだ。
しかし家庭の主婦として伊藤家のすべてを切り回してやっていくということは、
とてもお前にはできない相談だった。
お前はただ一途に自分を侮辱するものとしてわめいた。
金銭の計算さえ知らず、
伊藤家の財産があり余るものと見ているのか時々子供のようなことを言い出す。
いつか早良郡の箱島に遊びに行ったとて、
その箱島が気に入ったからあの島を買ってくれと頼まれた時には全く二の句が告げなかった。
世間知らず、骨董のように買われた身だ、と言ってお前は歌や文に書くけれど、
飾り物にしておかなければどうにも危険ではないか。
本当に伊藤家のために働き、本当に伊藤家の中心となり家を治めていこうという心持ちが
お前にあるかどうかを、俺は危ぶまずにはおられないではないか。

女中はいくら沢山にいてもいつかは他家へ縁付いてしまうものだから、
一人くらいは生涯家にいて家を死場所とするような忠実な女中が欲しい、
おさきは古くからいて実体な性格もよくわかっているから、
家庭一切のことはなるべくおさきに任していたのだったが、
そのうち妻にぽっくりと死なれて、
それ以来は夜具一枚皿一枚の出し入れもおさきがいなければわからなくなり、
おさきにも一生涯家にいるよう親許へも話して承諾させ、
家の出納係をさせていた原田と娶わせた。
そういう家庭へ乗り込んだお前は、まず第一におさきのすることが気に入らなかった。
良いものにはどこまでも良い、悪いとするとどこまでも悪い、
そういう極端から極端の頑固な性質を持っているお前は、
お姫様育ちで主婦としての何の経験も能力もない自分のことは棚に上げてしまい、
おさきがまめまめしく立ち働き他の女中までがあれを立てるのを見て、
お前はむらむらと例のヒステリーを起こした。
おさきのすること、おさきの顔を見れば腹がたつといって泣いた。
おさきに対する嫉妬的な狂人じみた振舞いはますますさかんになってとめどがなく、
毎日病気と言っては寝てしまい、食事もせずにお前は泣き通していた。
「女中風情が主婦としての私の権力を犯す」
そういうことを一途に考えたお前には何を言っても受け付けられなかった。
それがだんだんと嵩じてとうとう俺も正式に離別問題を持ち上げて、
その結果お前はしばらく柳原家に帰った。
しかし柳原家からの懇々とした頼みもあり、それではこちらも何とかしようというので、
おさき夫婦は別に原田を大正鉱業の社員として家から出すこととし、改めてお前を迎えた。
お前の立場を明らかにしてやった。

一ヶ月に500円、年に5000円までは小遣いとして使ってよいということに許してあった。
家内中みな月給制度で、
現に俺の入用もお前と同様月500円までと定めてあることも知っているはずだ。
その他にあの本が欲しい、短冊が買いたい、誰とかに丸帯、誰とかに指輪、
そんなことでいつもこの金高を越した。
東京・京都・大阪を旅行する度ごとにも、お前は決して質素とは言えなかった。
このことにも虐待はしなかったはずだ。
毎日幾十本とお前のところへ来る手紙の中には、
ずいぶん寄付強請のはなはだしいものもあった。
学校教育に幾千円を寄付してくれの、今500円あれば女一人の一生を救うことができるの、
奥さまの力で生きたいのと、それは限りがなかった。
お前は少し感傷的に持ち込まれるとすぐ同情し、
これらのあらゆる無心にことごとく応じたいという心持ちを持った。
そんなことをいちいち取り上げていたら、伊藤家の財産が幾億万円あっても足りるものではない。
出してはやらぬと言うと、無情だの冷酷だのと言って泣いた。
少し叱ると、お前はすぐ頭痛がしためまいがした、そしてしくしくと泣いては二日でも三日でも寝た。

金次の嫁〔艶子〕のことも、ただお前は理由なしに艶子の顔さえ見れば憎いと言う。
俺の目から見てあのくらい温順なやさしい嫁はないと思っている。
別家をして、年に一度か二度しか顔を見せない嫁が、どうしてあれほど憎いのか俺には解らぬ。
お前はこうなるとまるで子供のように手もつけられず、すべてのものを焼き尽くそうとした。
正月と盆、毎年伊藤家では一家親族が寄り集まって楽しい顔合わせをする例となっているのが、
お前ゆえにこの一門の集合はなんだか一年の厄日のごとくなってしまった。
遠い九州へ来て誰も味方がなくてはいつまでも寂しかろう、
どうすればお前の心持ちを自分の家にしっくり合うようにすることができるかと、
これにはかなり心を砕いた。
そしてお前には、妹や娘達の養子を探させた。
お前の眼鏡にかなってお前の味方となるような養子を入れたら良いと思ったからだ。
その結果、初枝には鉄五郎を、静子には秀三郎を、いずれもお前が探してきて、
俺はそれに一も二もなく賛成して家に入れることになったのではないか。

お前のヒステリーは、
お前の趣味性を満足させられるだけの話相手のない幸袋の家で最も多く起った。
その点博多にはお友達も多いしいくらか気が紛れてよかろうと思って、
あの天神町の家を建築してそれに移そうと考えたのだ。
お前が浄めの間が欲しいと言うから、立派な祭壇もこしらえてやった。
そしてこの建物もお前の気の済むよう、
お前の好きなお前の眼鏡にかなって家へ来た静子の養子秀三郎の名義にしてやった。
それからなおお前は京都にも一軒家が欲しいと言うから、
今お里のやっている伊里の建物をお前の名義にしてやったではないか。

お前が寂しがるから、お前の入れてくれという女中はたいがい家に入れた。
それもみなお前のヒステリーを起こさないために、
努めて俺はそういうことには極めて温順であった。
死んだゆうのことも、元を言えばお前の勧めから家へ入れることになったのだ。
亡くなったおゆうのことも、はじめはお前が寂しいと言うからお前の侍女として家へ入れた。
おゆうが来てからは少しはお前のヒステリーも治ったようだった。
歳は若いけれどおゆうは怜悧な女で、よくお前と俺との間の調和を取ってくれた。
お前に代ってよく俺にかしづく一方、お前のためにもよい女房であったに違いない。
おゆうのためにどのぐらい家庭が円滑に行ったことかしれない。
お前の極端な好悪の激しい性格、そして物を信じやすい情に弱い危険な性分、
おゆうはそこをよく飲み込んでいた。

俺は決して品行方正であるとは言わない。
しかし何等の愛情が無く自分を自分から人形だという看板を上げている病的な妻のみを擁して、
家庭の満足ということは得られるものではない。
そしてお前はまた俺にそういう所業を当然のことのようにして絶えず勧めたではないか。
今の舟子のことなども、もう止したらと言うのを、
おゆうもいないしどうか私の話相手にしてと頼むから、
お前の良いようにさせたのだ。
お前はそれを金力を持って女を虐げるものだと言っている。
俺自身の考えではない、お前こそ一人の女を犠牲にして虐げ泣かせ、
心にもない跪きをさせているのではないか。

俺はお前が来てこの年まで、お前のわがままやヒステリーには困りながら、
世間に向かってお前のことを爪の先ほども悪く吹聴したことはない。
それだのにお前は、世間のどの人よりも俺を罵り、
どの人よりも悪い仇敵として呪っていたではないか。
お前の雅号にしている白蓮!
お前はある人に、伊藤のような石炭掘りの妻にこそなれ、伊藤の家のような泥田の中におれ、
我こそは濁りに染まぬ白蓮という意味でつけたのだといったという、その自尊心。
そういう結婚式の第一日に見せられた自尊心ないし持病のヒステリーは
この十年間どのくらい俺を苦しめたことと思う!

お前は自分の歌集を出したいと言って俺に頼んだ。その時すぐ俺は出版費として600円やった。
夫に泣きついてやっと出してもらった書籍の内容を、俺は今ここに言いたくない。
夫として罵られながら呪われながらなお、お前の好きなことだお前が偉くなることだ、
そう思ってじっと堪えた事も一度や二度ではない。
俺はお前の好きな文学についての仕事にはまるで無干渉であった。
どれだけ時間を費やそうとどんなことをしようと、少しもかまわず放任主義を取っていた。
もとより趣味が違うのだから、干渉したところで解ろうはずがないとも思ったからだ。
俺が自分の今までの不品行であったことを自覚すればこそ、
お前が絶えず若い男と交際し、時には世間を憚るような所業までも黙って傍らから眺めていた。

お前は虚偽の生活を去って真実に就く時が来たというが、
十年!十年!と一口にいうけれど十年間の夫婦生活が虚偽のみで送られるものでもあるまい。
長い年月は虚偽もまた真実と同様になるものだ。
嫌なものなら、一月にしても去ることができる。
何のために十年という長い忍従が必要だったか。
お前は立派そうに「罪ならぬ罪を犯すことを怖れる」というが、
そういう罪を俺に対して怖れるほどの真純な心がお前にあったかどうか。
俺はどうかして何とかして、お前のひねくれた心を真実の心持ちに目覚めさせたい、
お前の持っていた無邪気さを生き生きとさせてやりたいと今日まで努力したが、
それもみな水泡に帰した。

十年間は夢であった。この十年間は俺にとって一生涯の一番辛いものだった。
お前は八郎に柳原家の妾腹の娘を入れて家の相続をさせようと建議したが、
俺がこれを聞かなかったことにもかなりな不平を持っている。
しかしその時俺の腹には、
もうどんなことがあっても平民の子に華族の嫁はもらわないという決心がついていたのだ。

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柳原伯爵家 名家 その2

●実子 義光  次代当主
●実子 信子  入江為守子爵夫人
●庶子 燁子  歌人柳原白蓮 結婚3回
北小路資武子爵→炭鉱王伊藤伝右衛門→大学生宮崎龍介


●信子 入江為守子爵夫人
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●燁子 歌人柳原白蓮 結婚3回
北小路資武子爵→炭鉱王伊藤伝右衛門→大学生宮崎龍介




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柳原白蓮/柳原燁子
1885-1967 明治18-昭和42 82歳没

父は柳原前光伯爵。前光の妹は柳原愛子、大正天皇の生母である。
ゆえに燁子は大正天皇のイトコにあたる。

前光には妻妾同居させている側室の梅子と近くの家に囲っている芸者おりょうがいた。
梅子は宮中の妹愛子の侍女。前光が見初めて愛子からもらい受け本邸に住まわせた。
おりょうは没落した幕臣の娘で芸者になり、伊藤博文と前光が取り合ったが、
おりょうは前光を選び身請けされた。
このおりようが生んだ娘が燁子である。おりょうは燁子を生んだ3年後に亡くなっている。
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■最初の夫 北小路資武子爵 夫22歳&妻15歳で結婚・夫27歳&妻20歳で離婚
1878-1942 明治11-昭和17 64歳没

●北小路との間に息子功光


■2番目の夫 伊藤伝右衛門 炭鉱王 夫50歳&妻26歳で再婚・夫60歳&妻36歳で離婚
1861-1947 万延01-昭和22 86歳没

●伊藤との間に子供ナシ
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■3番目の夫 宮崎龍介 弁護士・社会運動家 夫31歳&妻38歳で再々婚
1892-1971 明治25-昭和46 79歳没

●宮崎との間に息子 香織
●宮崎との間に娘  蕗苳
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白蓮&北小路資武子爵の息子 北小路功光

柳原の家は初子〔白蓮の父柳原前光の正妻〕でもっていたようなものだ。
初子の実家は宇和島の伊達家で、大変な金持ちだ。
公卿が貧乏だから伊藤伝右衛門と燁子の結婚があったように言うけど、ありゃ嘘だね。
柳原は豊かだったよ。金に困るようなことは何もなかった。

まだ子供みたいな母親だから育てられるわけがないさ。
燁子は文学少女で、わがままで、亭主が気に入らないときている。
5歳の私を婚家に置いてサッサと実家へ戻ってしまった。

中学に行くようになって、私は柳原の家から学習院に通った。
別れっぱなしに母子を会わせようと義光夫妻〔白蓮の兄夫婦〕が心を砕いてくれて。
あの頃はもう燁子は伊藤家の人になっていたからやっとお膳立てができて、
親子対面の感動の場面があったかと言うと、まるでなかった。
冷めてた。実に冷たかった。

出奔の頃、燁子の小遣いが少ないとかいうミミッチイ話が噂されただろ。
伝右衛門と一緒の暮らしでは、現金なんか一文も要らないやね。
全部ツケでいいのさ。車で乗りつけて、物を買って、ツケてくりゃいいんだよ。

あの女、始終ボーイフレンドがいたなあ。
文士の出入りが華やかで、取り巻きも大勢いたし。
龍介さんとの間の恋文運びを、息子の私にやらせたこともある。
天衣無縫というか、誰でも簡単に好きになり惚れ込んでしまう女だ。
妊娠しちまったから決心もついたんじゃないか。
とにかく逃げたかった、脱け出したかった、誰でもよかった。
あれで子供が出来てなかったら、また浮気で済んだかもしれないさ。
それが済まなくなったから居直った、と私は解釈している。

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筑紫の女王と呼ばれた白蓮は、取り巻きと恋愛遊戯を繰り広げた。
医学博士の久保猪之吉、白蓮は彼に恋文を送り続けるが、
妻のいる久保は結局白蓮と駆け落ちはしなかった。
陸軍中尉の藤井民助、白蓮は彼に恋文を送り続けるが、
婚約者がいる上に姦通罪を恐れた藤井は結局白蓮と駆け落ちはしなかった。

そして現れたのが、東京帝大法学生の宮崎龍介28歳。
父は孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天である。
白蓮は東京帝大法科の学生が主宰する雑誌『解放』に戯曲を連載していた。
これを担当したのが編集部にいた龍介だった。
この戯曲を単行本にするため龍介は別府の白蓮を訪ねて打合せをした。
自分をこの境遇から救い出してくれるのは彼しかいないと思った白蓮は、
毎日毎日編集部宛てに手紙を書き、次々と電報で情熱的な和歌を送った。

伝右衛門夫妻は毎年2回上京する習慣があった。
白蓮は上京するたびに龍介と逢瀬を重ねた。
2年が過ぎた頃に白蓮は妊娠してしまう。

龍介と仲間たちは策を練る。
いつもの通り上京した白蓮は伝右衛門と一緒に帰らず、
東京駅で夫を見送った後 龍介のもとへ走った。
龍介たちは大阪朝日新聞にリークして、白蓮から夫への絶縁状を渡した。

絶縁状は大正10年(1921)10月22日の夕刊に掲載され、一大事件と化す。
事件から10日後の11月01日、柳原・伊藤両家で話し合いが行われ離婚が決まる。
伝右衛門が男気を見せ姦通罪で二人を訴えなかったので、
刑務所送りになることもなく無事二人は結婚できた。

宮崎家は父滔天の時代から、中国からの留学生や食客が大勢いた。
白蓮は社会派弁護士となった龍介と懐の大きい姑鎚子と
大勢の社会運動家たちに囲まれて暮らす。
息子香織が戦死したのをきっかけに熱心な平和運動家にもなった。
一方、美智子皇后が皇太子妃に決まった時には強硬に反対し、
右翼団体まで動かして反対運動をした。


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樺山愛輔伯爵の娘/白洲次郎の妻 白洲正子

*白洲正子の母と、白蓮の兄嫁が姉妹である。

柳原白蓮が家出をしたのは大正10年のことだが、
駆け落ちの相手は共産主義者の宮崎龍介で、
柳原家と私の実家とは姻戚関係にあったため、
裁判沙汰が終わるまで白蓮さんを家で預かったりして
調停に立った父は大分苦労したようであった。

そのまま何十年も音沙汰なくすぎるうち、ある夜勢い込んで電話がかかってきた。
「あなた、今度のことどう思う?」
「今度のことってナァーニ?」
「美智子さんですよ。あんた、このままほっとくつもり?」
美智子さんとは現在の皇后陛下のことである。私はしばらく言葉に詰まってしまった。
「どう思うって、全然見たことも会ったこともない方のこと何も言えないわ」
電話の向こう側では怒り心頭に発したらしく、ガチャンと切ってしまった。
ナンダ、白蓮さんは共産党員と意気投合して何十年も経った今日では
骨の髄までマッカッカに染まっていると思ったのに、あれはみんな嘘だったのか。
それが人間というものなのか。

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by oMUGIo | 2002-02-12 00:00 | 公家華族

柳原伯爵家 名家 その1

◆柳原光愛
1818-1885 文政01-明治18 67歳没


■妻 長谷川雪顕の娘


●前光 次代当主
●為福 入江為福となる
●和麿 北小路随光子爵の養子となったが離縁
●愛子 明治天皇の側室 大正天皇の生母
●資秀 
日野資宗の娘斐子の婿養子になり日野資秀伯爵となる・三島通庸子爵の娘鶴子と再婚
●俊子 冷泉為紀伯爵夫人
●浜子 堤雄長子爵夫人





◆柳原前光
1850-1894 嘉永03-明治27 44歳没
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■妻 伊達宗城伯爵の娘 初子
1854- 嘉永07-
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★側室 梅子 宮中の妹愛子の侍女を見初めて愛子からもらい受け本邸に住まわせた。


★妾 芸者 おりょう 没落幕臣の娘で芸者になり、伊藤博文と前光が取り合ったが、
おりょうが前光を選んで身請けされ、本邸のそばの家に住まわせた。
燁子を生んだ3年後に死亡。


●実子 義光  次代当主
●実子 信子  入江為守子爵夫人
●庶子 燁子  歌人柳原白蓮 結婚3回
北小路資武子爵→炭鉱王伊藤伝右衛門→大学生宮崎龍介





◆柳原義光
1876-1946 明治09-昭和21 69歳没
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■前妻 岡山藩主池田慶政の娘 銀子
1878- 明治11-


■後妻 川村純義伯爵の娘 花子
1882- 明治15-
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●福子 婿養子を迎え次代当主とする
●徳子 吉井勇伯爵と離婚 ダンスホール事件を起こす
●文子 長谷川元秋夫人


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『名士文士貴婦人すっぱぬき』  大正06年出版

伯爵の若様達の間に先年一紛争が起こったことがある。
問題は赤坂の美形林家おきんの奪い合い事件で、
最初伊達という華族様が三河屋でおきんに可愛がられているのを見た大木遠吉伯爵が
ムラムラと例の野心を起こし「おい、おきんちょっと来い」と別室の電燈を暗くしてからは、
おきんは大木の殿様の肩を怒らせて歩く姿が勇ましくて気に入ったと
一時はアツアツのおでんよろしくの仲となっていたところ、
好事魔多し大木伯爵はその後坐骨神経痛で足が立たず
しばらく御無沙汰しているこの機乗ずべしとかねておきんに思し召しのあった柳原義光伯爵は
待合春の家からおきんを呼んで心意気の調子を合わせてから他人ならぬ仲となった。
おきんはそれにしても大木伯爵に気が置けるので
「柳原様、大木の旦那はどうなすったのでしょう」と聞くと、
柳原伯爵は「大木か、あれは近頃青山に美しいのを囲っているのに男の子が生まれたので
有頂天にうれしがりそちらにばかり入り浸り、おまけに千家の借銭に判をしたので
7000円を失くしたから取り戻そうと相場に手を出し、
お前のことなどはとうに忘れてしまっているよ」と言うに、
おきんも合点しそれからは私の好きなは柳原様ばかりとしなだれかかるので
柳原伯爵もグンニャリとなり毎日毎日会っている。
それを聞いた大木伯爵は烈火のように怒り、
「友人の所有権を侵すとはもっての他。このままでは済ませぬ。
以後の戒めに懲らしめてくれよう」と鉄拳を振り上げようとすれば足が利かぬ。
こは残念と芝伊皿子の柳沢邸に電話をかけると
保恵伯爵すぐさま鼻眼鏡をかけ水雷艇式の自動車を飛ばして駆けつけ、
とくと事の次第を聞いてそれは容易ならぬ公卿華族と新華族の悶着、
将軍家の血統を加えねば仲裁役に役者が足らぬと
さっそく柳橋一藤井に電話をかけて徳川厚男爵を迎え、
しきりに融和妥協に尽くしたのでようやくなんとか妥協ができたとかできなかったとやら。


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『横から見た華族物語』  昭和07年出版

柳原義光伯爵は華冑界の変人で、気骨もあり勇気もあり交際の術に長じ、
物事が早わかりしてネバネバすることを嫌った。
楽天主義の実行者で物を苦にすることなどのことはなく、
時には柳暗花明に遊んで大いに歌い大いに飲み酔えば気を吐いて隣室の客を驚かすなど、
白蓮夫人の兄だけに奇抜なところがある。
酒を飲むと脱線する気味があり、
まだ一同が酔いの回らぬうち「あ、こりゃこりゃ」と踊り出すことがあるが
平素は心に何のわだかまりもない朗らかな人物である。
華族社会の快男児として政治的方面にも多少重んぜられているが、
財政はだいぶ苦しいそうで先年とうとう桜田町の本邸を叩き売ってしまった。


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◆柳原博光
1889-1966 明治22-昭和41 77歳没
もと大原重朝伯爵の子 大原義質 婿養子になる


■妻 先代義光の娘 福子
1899- 明治32-
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●武子 婿養子を迎え次代当主とする
●在子 前橋松平直正伯爵と離婚・菊池友雄と再婚
●行子 島津矩久夫人





◆柳原承光
1916- 大正05-
もと松平忠寿子爵の子 婿養子になる


■妻 先代博光の娘 武子
1919- 大正08-


●留美子
●真美子




*柳原家は義光が男色相手から脅迫されて警察沙汰になったり、
娘徳子がダンスホール事件を起こしたり、
妹燁子/柳原白蓮が炭鉱王伊藤伝右衛門のもとから宮崎龍介と駆け落ちするという事件が続いた。

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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正10年12月01日

燁子事件につき右翼内田良平他一人より宮内大臣牧野伸顕に送りたる書状を牧野に返す。

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倉富日記 大正10年12月22日

宮内大臣牧野伸顕、義光に対し予より「綾子を引き取り監督する事を注意せよ」と言う。
予は柳原に対し「燁子はどこにいるや」を問う。柳原「なお山本保夫の家にあり」と言う。
予「燁子が既に復籍したる以上は戸主としてこれを監督すべき途を講ずべき」事を告ぐ。


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倉富日記 大正11年01月11日

親族樺山愛輔伯爵の台詞

自分・入江為守・三室戸敬光ら〔全員柳原家の親族〕
柳原義光に対し引責処分を促したるも、義光は頑としてこれに応ぜず。
「自分はなんら為すべき事なし」と主張したる由なり。


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倉富日記 大正11年01月14日

その後燁子は家主山本保夫と争いたる事ありとか言うことにて、
只今は池袋のあたりに一戸を構え女中2人を役し暮しおり。
その家は宮崎龍介の家と4,5丁を隔てるのみにて宮崎も往来しおるにはあらざるや。

燁子事件につき自分に対し種々の意見を言う人あり。
例えば爵を辞すべし貴族院議員を辞すべしと言う人もあれば、
またこれを辞すべからずと言う人もあり。
もはや50歳も近き自分として為すべからざる事と思い、辞爵はせざる事に決心せり。
また貴族院議員は選挙により就職しおるものにて、みだりに進退すべきものにあらず。
これも辞せざる事に決心せり。


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倉富日記 大正11年01月17日

宮内官僚三室戸敬光子爵の台詞 (三室戸は柳原家の親族)

一昨日義光の妻と入江為守の妻が迎えに行き、これを連れ帰り柳原の家に置く事となせり。

宮内大臣牧野伸顕の台詞

しからば今後は充分監督を厳にする必要あり。
柳原はとかく責任を免れんと欲するごとき模様あり。左様の事にてはよろしからず。


倉富&三室戸敬光の会話

倉富◆燁子を監督するには充分の注意を要す。もし燁子が逃げ出す様の事ありて
柳原がこれをもって燁子の非行となしすぐに除籍する様の事をなさば、
せっかく苦心して呼び戻したる事も無益となる。
三室戸◆その事は充分注意しおり。たとえ逃げ出す様の事あるも、
二度にても三度にても呼び戻して監督する事に話し合いおけり。
倉富◆妊娠の虚実を問う。
三室戸◆少し腹部が大なる様なり。
倉富◆仮にその事ありとするも結婚中の事なるゆえ、一応は正当の妊娠と言う事を得べし。
三室戸◆伊藤伝兵衛も自己の子と言う方が面目を損ぜずと思う事もあるべし。


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倉富日記 大正11年01月20日

宮内官僚入江為守子爵の台詞 (入江は柳原家の親族)

燁子を連れ帰りたる事は聞かれたるならん。燁子の妊娠は事実なるがごとし。
この事については
和田豊治が伊藤伝右衛門をしてその子なる事を認めしむる様交渉する事を引き受けおる。


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倉富日記 大正11年02月09日

倉富&警視総監岡喜七郎の会話

倉富◆燁子の件に関し内田良平等の子分が決議を為したる趣なるが如何なる状況なるや。
岡◆先日の決議にては、宮内大臣を往訪して難詰する事となりおるも、いまだ来訪もせざるならん。
あるいは先日の会合のみにてそのまま黙止するやも計り難し。


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倉富日記 大正11年02月10日

宮内官僚松平慶民子爵より燁子の件につき内田良平らより配布したる書類を示せり。
予これを一読したるも、燁子の行動につき宮内大臣・内務大臣・文部大臣の措置が当を得ず、
また柳原義光が瀬金んを負わざる事を咎むる物にて、
その論旨によれば、義光は爵を辞し、燁子は自殺し、各大臣は職を辞すべしと言うに帰す。


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倉富日記 大正11年02月14日

宮内官僚関屋貞三郎の台詞

義光に対し議員を辞する事を勧めたるも、いまだ承諾の答を為さず。
宮内省より物質上の賜でも求る様の口気ありたり。


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倉富日記 大正11年02月17日

関屋貞三郎の台詞

昨夜義光と会い強く引責を勧告したるも、
義光は「自分が引責して議員まで辞する事を燁子に告げて説諭したらば、
燁子も尼になるぐらいの発奮はいたすべし。
燁子が尼にでもなりたらば、世人はそれにて折り合うならん。
このごとき事件できたるにつき、自分いっそう皇室並びに国家の為に力を尽くす必要ありと思う。
それには公職を辞するは適当ならずと思う」と言い、責を引く決心なし。


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倉富日記 大正11年02月20日

倉富&関屋貞三郎の会話

関屋◆義光は実に分からぬ人なり。自分より議員を辞する事を勧めやや了解したる様なりしも、
宮内省の為に辞職する様にのみ考え、宮内省に対し不満の語気を漏らせり。
倉富◆今日は右翼黒龍会の連中が義光を訪う旨新聞に記載しおるが、事実なるべきや。
関屋◆義光は壮士から少しぐらい脅かされる方がよろしかるべし


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倉富日記 大正11年03月04日

関屋貞三郎

義光は気違いなり。先日義光より和田豊治と入江為守とを招きたる。
義光は「宮内大臣は自分を買収するつもりにて実に不都合なり」と言いたる由。
和田より「自分は左のごとき話を聞くために来りたるにあらず。
右翼内田良平の子分らはなかなか強硬にて議員を辞するぐらいにては満足せず。
ぜひ隠居せしめんと言いおれり」
和田と入江の話にて義光もその非を悟り、
「議員を辞す事は両三日熟考したるうえ和田に返答する」事に約束しながら、
数日を経過するも何とも申し来らざるゆえ和田より催促したるに、
義光は「田中舎身に取り扱い方を依頼したるゆえ、和田には返答せず」と言いたる由なり。
義光は自分に対し議員を辞するにつき多額の賜金を要求する口気を漏らしたる。
義光は「議員の歳費は3000円なるも、議員となりおれば大臣となる機会もあるゆえ
単に歳費の問題とは為し難し」などと言い、甚だ卑劣なる事を言いおりたり。
入江も義光の態度には困ると言いおりたり。


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倉富日記 大正11年05月25日

倉富&入江為守&宮内大臣牧野伸顕の会話

牧野◆燁子が分娩したる子の処分の事につき、
義光は宮内省より何か世話をする事を望みおる模様なり。
入江◆燁子が出生したる子は伊藤伝右衛門が自己の子として出生届を為す事を肯んぜざる。
いかが処置したらばよろしかるべきや。
倉富◆法律上にては伊藤の子なり。
伊藤がこれを否認するには訴訟を提起して自己の子にあらざる事を証明せざるべからず。
これを証明するには伊藤が生殖能力なき事実を挙示せざるべからず。
伊藤もこのごとき事まで為して恥の上塗りを為すべしとは思われず。


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倉富日記 大正12年10月26日 

宮内官僚の松平慶民・酒巻芳男来り、
燁子が宮崎龍介と同居しおる趣につき速やかに処分せざれば更に物議を起す恐れあるにつき、
義光より燁子を分家せしむるが簡便ならんと思いたるが、
宮内次官関屋貞三郎は「分家にては懲戒の意なし。離籍の方が可ならん」と言えり。
宮内大臣牧野伸顕も「離籍か宮内大臣の懲罰にて除族にするか二様の内にしたし」との事なり。
 

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倉富日記 大正12年10月29日

宮内大臣牧野伸顕の台詞

樺山愛輔の談によれば、燁子も一時は非常に悔悟したる模様なりしが、
その後京都の寺に行き如何なる事なりしか丹波の大本教に行き、
神戸夫婦非常に燁子に同情し宮崎龍介の母なども度々燁子を誘い、
ついにまた龍介と一緒になりたる趣にて、結局薄志なる人なるなり。


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※当時の総理大臣の月給は1,000円

昭和06年、柳原義光は蒔田広城子爵に男色相手田中吉太郎と知り合う。
田中は役者あがりでバーを経営、華族相手の男娼として知られていた。

昭和08年、田中に飽きた義光は別の男娼を探すようになる。
華族に男娼を斡旋していたブローカー目真野がこれを知り、
田中に白紙委任状を書かせ代理となり、義光に手切金2000円を支払うよう要求する。
そんな大金のない義光が拒否すると、目真野は脅迫するようになる。
進退窮まった義光は田中を警察に訴える。

スキャンダルは昭和天皇も知るところとなり、
牧野伸顕を通じて木戸幸一に事態の把握が命じられる。
周囲が大騒ぎする中、当の本人義光は避暑と称して姿をくらましていた。

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田中吉太郎の証言

伯爵なんてまったく薄情なものですよ。ほんとに華族なんて横暴だわ。
私は金なぞ欲しくもないし生活にも差し支えはしないのに、
ヤーさん〔柳原義光〕が全然知らぬなんてあんまりよ。
会って話してやりたいわ。しかし負けたのよ。
華族なんかの中にはこんな話はたくさんあるわ。


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*徳子と吉井勇は恋愛結婚。華族同士だが柳原家はこの結婚に大反対であった。

柳原義光の娘徳子は「ダンスホール事件」と呼ばれるスキャンダルを起こす。
昭和08年ダンスホール<フロリダ>の男性ダンス教師が
多くの有閑マダムとの姦通罪で逮捕された。
ダンス教師は女性客を斡旋していたのは
柳原義光伯爵の娘で吉井勇伯爵夫人の徳子であると自供した。

歌人でもある吉井勇は若い頃からかなりの放蕩児であった。
結婚しても息子が生まれても生活を改めることがなかったため、
当てつけのように徳子も不倫に走ることになる。

斎藤茂吉の妻輝子、近藤廉平男爵の子近藤廉治&樺山愛輔伯爵の娘安子夫妻など、
徳子の遊び仲間が一斉に検挙された。
そこで徳子は近藤廉治と不倫、妻の安子もダンス教師と不倫、というダブル不倫も発覚した。

宮内省は世間を騒がせた<不良華族>に厳しい態度で臨み、
近藤廉治&安子夫妻は華族から除籍されて平民に格下げされた。
徳子は吉井勇と離婚、吉井は芸者の娘孝子と再婚し京都に住まった。
輝子と斎藤茂吉は事件以降別居夫婦となる。
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by oMUGIo | 2002-02-11 00:00 | 公家華族

西園寺公爵家 清華家 その2

●公一 ゾルゲ事件に関係して逮捕・除籍される 芸者雛蝶/雪江と結婚
●二郎
●不二男 次代当主
●春子  住友友成夫人
●美代子 阿部一蔵夫人


●公一 ゾルゲ事件に関係して逮捕・除籍される 芸者雛蝶/雪江と結婚
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●春子  住友友成夫人
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●美代子 阿部一蔵夫人
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公一の妻 雪江夫人のインタビュー

雪江は群馬県館林の出身。
数え17歳の時、新橋で一流と言われた【河辰中】に預けられる。
当時【河辰中】は美人ぞろいで評判であったが、
【雛蝶】と呼ばれた雪江はたちまち売れっ娘になった。
無口で愛嬌に乏しいが、天性の美貌がものをいった。
雪江は公一に身請けされたのではなく、
2年の年季を勤め上げた上お礼奉公も済ませてから公一と事実婚に入った。

しかし新婚早々から公一はめったに家に帰ってこなかった
雪江は主人のいない西園寺家で家令や女中頭に囲まれてつらい日々を送る。
「私のことを奥さんとは見てくれないんです。
陰で『あの女、あの女』と言われて、長男一晃の事は『若様』と言って家令が抱いて寝る。
私には任せられないというわけなんでしょうけど。
時間が来たら起きて、時間が来たら寝る。格子なき牢獄ですよ。
パパは子供がいるから週に一回帰ってくるという風で、私に愛情なんてあったのかしら」
雪江は小さかった二男の彬弘を連れて熱海の西園寺家から小田原の別荘に逃げる。
「私宛てに手紙が来たんですが、『家風に合わないで出たものは仕方ないから帰ってこなくてもよい。
子供は迎えを差し向けるから渡せ』って言うんですよ。冷たい人だなと思って泣いちゃいました」

戦後は目黒に土地を見つけバラックを建てて住んだ。雪江は必死で働いた。
しかし公一は浅草橋に住みついて相変わらず家には寄りつかない。
赤坂に家を見つけ引っ越した。すると公一は浅草橋から目黒へやってきて別棟を建てて住んだ。
「あの人は、私のいない後にいない後に来るような感じでしたね」
公一はウィーンで開かれた世界平和評議会に日本代表として渡航する事になった。
3ヶ月分の生活費を置いていったが、3年も帰ってこなかった。

公一がやっとウィーンから帰ってきたと思ったら、今度は中国へ行くと言う。
ここで置いていかれたらいよいよ終わりだと思った雪江が同行を申し出ると、
公一は「どっちでもいい」と言った。子供たちに訊くと、長男は「嫌だ」と言った。
二男は「僕には父親はいないよ。いらないや、あんなもの」と言った。
しかし夫妻はやっと入籍して、一家で中国へ向かった。
13年後帰国、雪江は中国からの輸入品を扱う【雪江堂】を経営した。
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by oMUGIo | 2002-02-04 00:00 | 公家華族

西園寺公爵家 清華家 その1

◆西園寺公望 総理大臣
1849-1940 嘉永02-昭和15 91歳没
もと公家徳大寺公純の子

*フランスに留学
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■妻帯せず


★妾 小林菊子 芸者玉八


★妾 中西房子 芸者ふさ奴


★妾 奥村花子 女中


●小林菊子の子 新子 婿養子を迎え次代当主とする
●中西房子の子 園子 高島正一夫人


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西園寺公望の恋人 祇園の芸妓 江良加代
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西園寺公望→木戸孝允→伊藤博文→最後は財閥三井高辰の妾として幸せな生涯を終えた
時の権力者に次々と愛された芸妓。

26歳の西園寺公望が祇園で13歳のお加代を見初め正妻とするために東京へ連れて行ったが、
西園寺家の猛反対により実現しなかった。お加代は祇園へ舞い戻った。

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萬朝報 明治31年07月10日

西園寺侯爵は荏原郡入新井村新井宿の本邸に、
新橋にて有名なりし蓬莱屋玉八こと松野キク(31)なる妾を蓄え、
逗子の別荘には元西京の芸妓艶鶴こと中田フサ(22)なる妾を蓄う。


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◆西園寺八郎
1881-1946 明治14-昭和21年 65歳没
もと毛利元徳公爵の子 婿養子になる
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■妻 先代公望の娘 新子
1886-1920 明治19-大正09 34歳没
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●公一 ゾルゲ事件に関係して逮捕・除籍される 芸者雛蝶/雪江と結婚
●二郎
●不二男 次代当主
●春子  住友友成夫人
●美代子 阿部一蔵夫人


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西園寺公望には男子がいなかったので、伊藤博文が取り持って毛利家から養子を入れた。
養子の話があった時、八郎はこう言った。
「私は暴君のような男だから養子には向きますまい。
西園寺家のような名門を潰してしまう事になるかもしれませんよ」
公望はこう返事をした。「一向にかまいません。
養子にもらった以上、家を興してくれようと潰してくれようと、八郎次第です」
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◆西園寺不二男
1910-1986 明治43-昭和61 76歳没


■妻 財閥鮎川義介の娘 春子


●公友
●祥子
●裕夫
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by oMUGIo | 2002-02-03 00:00 | 公家華族

万里小路伯爵家 名家 その2

●博房 次代当主
●素信→娘智子は次々々代当主夫人
●正秀 万里小路正秀男爵となる ロシアに留学 
ロシア人マリア・バユノヴァと離婚・野村靖子爵の娘久子と離婚・久子は本野一郎子爵と再婚 





●通房  次代当主
●博直  新見藩主関長道の娘天留の婿養子になり関博直子爵となる
●千代子 裏松良光子爵夫人
●公義  姉小路公義伯爵となる
●音丸  河辺博長男爵となる


●博直 新見藩主関長道の娘天留の婿養子になり関博直子爵となる
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●千代子 裏松良光子爵夫人
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●音丸 河辺博長男爵となる
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●前妻の子 伴子  堀田正倫伯爵夫人 
●前妻の子 李子  跡見花蹊の養女となり、跡見女学校の2代目校長になる
●前妻の子 東美子 軍人賀茂巌雄夫人
●前妻の子 直房  次代当主
●前妻の子 通次  葉室長邦伯爵の娘春子の婿養子になり葉室長通伯爵となる
●前妻の子 喜美子 酒井忠克伯爵夫人
●前妻の子 通利  杉本美子と結婚
●後妻の子 通義  鷲田通義となる
●後妻の子 通雄  瀬子利枝と結婚
●後妻の子 通孝  黒岡通孝となる
●後妻の子 寿美子 浅田文彦夫人


●伴子 堀田正倫伯爵夫人
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●李子 跡見花蹊の養女となり、跡見女学校の2代目校長になる
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●東美子 軍人賀茂巌雄夫人
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●通次 葉室長邦伯爵の娘春子の婿養子になり葉室長通伯爵となる
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●喜美子 酒井忠克伯爵夫人
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by oMUGIo | 2002-02-02 00:00 | 公家華族

万里小路伯爵家 名家 その1

◆万里小路正房
1802-1859


■妻 藤波寛忠の娘 実子


●博房 次代当主
●素信→娘智子は後の当主夫人
●正秀 万里小路正秀男爵となる ロシアに留学 
ロシア人マリア・バユノヴァと離婚・野村靖子爵の娘久子と離婚・久子は本野一郎子爵と再婚 





◆万里小路博房
1824-1884


■妻 三日月藩主森長義の娘 貞子


●通房  次代当主
●博直  新見藩主関長道の娘天留の婿養子になり関博直子爵となる
●千代子 裏松良光子爵夫人
●公義  姉小路公義伯爵となる
●音丸  河辺博長男爵となる





◆万里小路通房
1848-1932 嘉永01-昭和07 84歳没

*イギリスに留学

*宮廷に仕えるが素行不良によりクビになる。
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■前妻 池田健蔵の娘 八重子
1850-1897 嘉永03-明治30 47歳没
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■後妻 尼崎藩主松平忠栄の娘


●前妻の子 伴子  堀田正倫伯爵夫人 
●前妻の子 李子  跡見花蹊の養女となり、跡見女学校の2代目校長になる
●前妻の子 東美子 軍人賀茂巌雄夫人
●前妻の子 直房  次代当主
●前妻の子 通次  葉室長邦伯爵の娘春子の婿養子になり葉室長通伯爵となる
●前妻の子 喜美子 酒井忠克伯爵夫人
●前妻の子 通利  杉本美子と結婚
●後妻の子 通義  鷲田通義となる
●後妻の子 通雄  瀬子利枝と結婚
●後妻の子 通孝  黒岡通孝となる
●後妻の子 寿美子 浅田文彦夫人


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明治天皇紀 明治23年09月16日

侍従万里小路通房・岡田善長・田沼望、側近に奉仕して操行治まらず
どうもすれば世の指目を受く。侍従中これを諌むる者あるも悛めず、
ついに演劇を試みるなど君側の風紀を紊すの恐れなしとせざるをもって、
この日万里小路・岡田・田沼に非職を命ず。
天皇、侍従を遇するに偏愛することなく、ひとたび任ずればこれを更うることを好みたまわず、
長く奉仕せしるむを常とす。この如きは前後にこれを見ず、まったく異例なり。

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◆万里小路直房
1875-1907 明治08-明治40 32歳没


■妻 元当主素信の娘 智子
1879- 明治12-


●芳房 次代当主





◆万里小路芳房
1903-1980 明治36-昭和55 77歳没


■妻 賀茂厳雄の娘 勝子
1906-


●忠房
●芳信
●喜久子
●芳雄
●紀世子
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by oMUGIo | 2002-02-01 00:00 | 公家華族

大谷伯爵家 西本願寺 その2

●松原藤子の子 光瑞 次代当主
●松原藤子の子 文子 常磐井堯猷男爵の1/3番目の妻・本人死別
●松原藤子の子 孝慈 木辺孝慈男爵となる 醍醐忠敬侯爵の娘静子と結婚
●松原藤子の子 光明 九条道孝公爵の娘紝子と結婚
●松原藤子の子 尊由 小出英尚子爵の娘泰子と結婚
●松原藤子の子 武子 九条良致男爵夫人→歌人九条武子
●本妻の子   義子 壬生泰弘男爵夫人・広瀬千秋夫人


●光明 九条道孝公爵の娘紝子と結婚
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●尊由 小出英尚子爵の娘泰子と結婚

夫妻と子供たち
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★尊由の娘 益子 朝香宮正彦王/音羽正彦侯爵と結婚
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九条武子●子供ナシ
1887-1928 明治20-昭和03 41歳没
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兄たちに囲まれて育った武子はお転婆で、
人形遊びよりも兄たちとチャンバラ遊びをすることを好んだ。
乗馬や木登りも得意で、
手が長くスルスルと木に登る武子に兄たちは「手長猿」というあだ名をつけた。
また物真似が得意で、冗談が上手く、家族兄弟はいつも笑い転げていたという。

兄光瑞は武子の結婚相手に東本願寺の二男大谷瑩誠を考えていた。
この二人が結婚すれば、三百年も対立してきた東西本願寺の関係が好転するとの考えである。
ところが妻寿子が弟良致を推薦する。
九条公爵家は禅宗で良致は男爵、
宗旨が浄土真宗で子爵以上の相手を探していた幹部陣は難色を示したが、
次期法主夫人の寿子の意見は無視できず、良致が武子の夫に決まる。
良致は一条公爵家に婿養子の予定で養子に入ったが、
結婚相手の経子から嫌われ実家に戻されていた。
寿子はさらに光瑞の弟光明と自分の妹紝子を結婚させており、
大谷家と九条家との間に3組の夫婦を作り上げた。

東京麹町三番町の男爵邸で新婚生活を始めたが、
黙って酒ばかり飲んでいる何を考えているかわからない夫との仲はしっくり行かなかった。
良致はイギリスのケンブリッジ大学に3年間の予定で留学することになっていた。
良致の渡航費用・留学費用・生活費はすべて大谷家の負担である。
09月にまず兄夫婦が出発、追って12月に武子夫妻が神戸を出発。
香港・シンガポール・コロンボを経てマルセイユに到着し、01月兄夫婦と合流する。
武子は船客たちと親しく交わったが、良致は船室に閉じこもって甲板に出ることもなかった。

光瑞は「仕事がたまっているので自分はすぐにロンドンに行かなければならない。
地中海旅行は君たち3人で楽しむといい、良致君二人の面倒を頼みます」と言ったが、
良致は地中海旅行には参加せず、光瑞と一緒にロンドンに行くと言い出す。
結局男性陣はロンドン直行、女性陣は地中海旅行に回ることになる。
03月にロンドンで男性陣と女性陣が合流するが、また良致は自分だけが出て行くと言う。
それまで光瑞とロンドンに住んでいた良致は、一人郊外の下宿に移ってしまう。
良致とともにロンドンで暮らす予定であった武子は、結局08月兄夫婦とともに帰国することになった。

良致は留学予定の3年が過ぎても帰国せず、イギリス滞在は10年に及んだ。
すでに外国人女性との間に一男一女ももうけていた。
しかし、武子も悲嘆にくれて暮らしたわけではなかった。
何よりも武子は一生涯西本願寺の娘であった。
ヨーロッパから帰国して3ヶ月後、兄嫁寿子が子宮炎で急死した。
兄光瑞は再婚しなかったので、武子は光瑞の片腕のような存在であった。
光瑞が「口八丁、手八丁」と称したように、武子は機転がきき独創性があり手早い。
西本願寺の広告塔として、巡教のため日本全国を飛び回った。

良致が帰国する気になった理由は不明だが、
10年に至って大谷家が良致への生活費の仕送りを打ち切ったのかもしれない。
ともかく大正09年12月06日午前06時、良致を乗せた船が神戸港に着いた。
12月12日、住まいとなる東京の西本願寺築地別院へ引っ越した。
帰国した良致はまた深酒を続けた。
銀行の勤めには一応出かけていくが、帰宅時間は一定しない。
酔っ払ってフラフラで帰ってくる日もあるが、帰ってこない日もあった。
ある夜、良致は泥酔して玄関で伸びていた。
武子は足を持ち上げて靴を脱がせようとした。
良致は武子に気づくと、武子を振り払い、靴のまま武子のアゴを蹴り上げた。
大正11年には良致は不渡り手形による詐欺事件で起訴されている。

大正12年の関東大震災以降、武子は巡教の他に慈善活動も始める。
昭和02年、例年通り医師らとともに貧民窟の歳末巡回診察をした際に風邪を引く。
正月02日の深夜、酔っぱらった良致が風呂に入りたいと言い始めた。
このとき井戸ポンプが故障していた。
そこで使用人が隣の家から水をもらってくる、
晴れ着にタスキをかけた武子がそれを風呂場の窓から受け取り風呂桶に移すという作業をした。
これが原因で武子は風邪をこじらせて敗血症となり、02月07日死亡。
良致は晩年ホテル住まいをしていた。
昭和15年08月、良致はホテルで倒れ脳出血で死亡、56歳だった。
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イギリスにて
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by oMUGIo | 2002-01-20 00:00 | 公家華族


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