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カテゴリ:武家華族( 181 )

内藤子爵家 高遠藩主

◆内藤頼直
1840-1879


■妻 宇都宮藩主戸田忠温の娘 安子
1845-1869 


●弥三郎 次代当主
●頼輔  次々代当主





◆内藤弥三郎●子供ナシ
1872-1931





◆内藤頼輔
1877-1944
先代の弟


■妻 高崎藩主大河内輝声の娘 桂子
1883-1954 


●要子 堤経長子爵夫人
●頼博 次代当主
●頼武 大森恭子と結婚
●和子 明石元長男爵夫人


●要子 堤経長子爵夫人
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◆内藤頼博
1908-


■妻 西郷従道侯爵の娘 董子
1913-


●園子
●頼誼
●慈子
●郁子
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by oMUGIo | 2004-07-08 00:00 | 武家華族

秋元子爵家 館林藩主

東京本邸 神田区駿河台北甲賀町 (現:千代田区神田駿河台)


◆秋元志朝
1820-1876 文政03-明治09 56歳没
もと徳山藩主毛利広鎮の子
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■前妻 米沢藩主上杉斉定の娘 良子
1827-1849 22歳没


■後妻 岡崎藩主本多忠考の娘 秀子
-1861


●銑次郎
●甚九郎
●孫三郎





◆秋元礼朝●子供ナシ
1848-1883 35歳没
もと掛川藩主太田資始の子
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■妻 宇都宮藩主戸田忠温の娘 操子
1847-1888 41歳没 





◆秋元興朝
1857-1917 安政04-大正06 60歳没
もと高徳藩主戸田忠至の子

*ヨーロッパに留学
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■前妻 盛岡藩主南部利剛の娘 宗子 死別
1866-1910 慶応02-明治43 44歳没
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■後妻 高知藩主山内容堂の娘 八重子 東伏見宮依仁親王妃と離婚・興朝と再婚
1869-1919 明治02-大正08 50歳没
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●光子 婿養子を迎え次代当主とする





◆秋元春朝
1881-1948 67歳没
もと毛利元功子爵の子 婿養子になる

*ドイツ・イギリスに留学
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■先代の娘 光子
1886-1930 44歳没
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●順朝 次代当主
●英子 佐竹義勝子爵と結婚・松浦義教と再婚
●道子 上野祝二夫人





◆秋元順朝
1905-1967 62歳没


■前妻 伊達宗曜男爵の娘 欽子
1913-1948 35歳没


■後妻 吉野大作の娘 弘子
1914-


●前妻の子 和朝
●前妻の子 泰子
●後妻の子 恒朝
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by oMUGIo | 2004-07-07 00:00 | 武家華族

保科子爵家 飯野藩主

◆保科正益
1833-1888


■妻 宇和島藩主伊達宗紀の娘 節子
1840-1905 


●寧子  財閥岩崎久弥男爵夫人
●建子  沢田鋓義夫人
●正昭  次代当主
●咸次郎 楠田咸次郎男爵となる
●尚子  佐野常羽伯爵夫人


●寧子  財閥岩崎久弥男爵夫人
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◆保科正昭
1883-1947
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■妻 北白川宮能久親王の娘 武子女王
1890-1977
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●光正


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武子女王は藤堂高紹伯爵と婚約していたが、
藤堂は留学中に密かにイギリス人女性と結婚しており、
帰国後その事実が発覚し、大問題となり破談となった。

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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正09年10月26日

有馬頼寧伯爵の台詞 (頼寧の妻貞子は武子夫人の姉)

保科正昭、先年来朝鮮京城にあり。夫人武子は東京にあり。
先頃保科より、近々総督府の技師を辞して東京に帰る旨を通知し来り。
親族にても喜びおりたるところ、
聞くところによれば保科は京城にて妓女に通じ既に懐妊しおるとの事なり
よりて先日伯爵二荒芳徳〔妻拡子は武子夫人の妹〕と協議し、いかに処置すべきや談合の末
まず事実を確かめる必要を生じたるもみだりに問い合す事もできず。
君は京城に知人あるにつき君に依頼して取り調べもらう事に話し合いたるゆえ、
しかるべく問い合せてくれよ。

武子は初め藤堂高紹に嫁するつもりのところ藤堂が外国婦人の関係ありたるため破談となり、
藤堂との婚約まだ破れざる時、保科より貰い受ける様の話をなしたる事あり。
しかるに藤堂との婚約破れたるより、
北白川宮富子妃は一も二もなく保科に嫁せしむることに決したるが、保科はこの結婚を喜ばず
結婚後朝鮮へ行き既に7年になれり。
武子は病身にて朝鮮に行きがたく、今日のごとき事となりたる次第なり。

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◆保科光正
1914-1945
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■妻 徳川家正公爵の娘 順子 相手死別・関根勇吉と再婚
1919-


●正興
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by oMUGIo | 2004-07-06 00:00 | 武家華族

蜂須賀侯爵家 徳島藩主

東京本邸 芝区三田綱町 (現:港区三田) 土地5万坪 建物2000坪

高輪別邸

鉄砲洲別邸

洲崎浜町邸

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◆蜂須賀茂韶
1846-1918 弘化03-大正07 71歳没

*オックスフォード大学に留学・フランスに駐在
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■前妻 蜂須賀隆芳の娘 斐子 離婚


■後妻 水戸徳川慶篤の娘 随子
1854-1923 安政01-大正12 69歳没

イギリスにて 後妻随子夫人と
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茂韶には11人の側室がいたが、すべての側室を辞めさせることが随子側の結婚の条件であった。
しかし随子自身はかつて松平定教子爵(松平定敬とされるのは誤り)と婚約していたことを理由に
「二夫にまみえず」として茂韶とは寝所を共にせず、自分の侍女萩原京を側室にさせた。
毎週月・水・金は随子夫人の住む本邸に泊まり、
火・木・土・日は側室お京の住む高輪別邸に泊まったという。
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●庶子 正韶 次代当主





◆蜂須賀正韶
1871-1932 明治04-昭和07 61歳没

*ケンブリッジ大学に留学
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■妻 将軍徳川慶喜の娘 筆子
1876-1907 明治09-明治40 31歳没
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●年子  松平康春子爵と結婚離婚
●笛子  松田正之男爵夫人
●小枝子 佐竹義種子爵夫人
●正氏  次代当主


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蜂須賀正韶の娘 蜂須賀年子

私の父は人間嫌いというほどではなかったが、人に対する情は薄かった。
ことに、女嫌いであったことは事実である。
父は男女関係について全く幼稚だったような気がする。
8年も外国にいたくせに女性というものをほとんど知らない。
自分の妻にさえ、ある種の恐怖心を感じていたようだ。
新婚当時 女の扱い方を知らなかったため、夜の営みのことを考えると居ても立ってもいられず、
戸棚に隠れて一夜を過ごしたという話もある。

父はすべての動物に対しても、さしたる愛情を持っているとは見えなかった。
たぶん生まれつきなのであろうと思うほかはなかった。

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●年子 松平康春子爵と結婚離婚
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左から 正氏 小枝子 笛子 
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◆蜂須賀正氏
1903-1953 明治36-昭和28 50歳没

*イギリスに留学

*北白川美年子女王と婚約していたが、破談となった。
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■妻 日系アメリカ人 永峰智恵子
1909-1996 明治42年-平成08 87歳没


●正子
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by oMUGIo | 2004-07-05 00:00 | 武家華族

溝口伯爵家 新発田藩

◆溝口直溥
1819-1874


■前妻 浜田藩主松平康任の娘 愛子
-1838 


■後妻 土浦藩主土屋彦直の娘 増子
1822-1888 


●庶子 直正
●庶子 信太郎 増山正治子爵となる 長島藩主増山正修の娘八十子と結婚
●庶子 源八郎 諏訪忠元子爵となる 諏訪藩主諏訪忠誠の娘晴子と結婚
●庶子 歓十郎 五島盛光子爵となる 堀田正養子爵の娘善子と結婚
●庶子 鋹子  福山藩主阿部正教と死別・吉田藩主大河内信古の後妻
●庶子 文子  大洲藩主加藤泰夫人
●庶子 幾子  南部利恭伯爵の後妻
●庶子 武五郎
●庶子 銀子  分部光謙子爵と結婚離婚


立つ左から 三郎 直介 利男 諏訪忠元子爵 増山正治子爵 
武五郎 五島盛光子爵 直亮 辰男
  
座る左から 久美子 直正 久爾子夫人 武五郎の妻静子  
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●歓十郎 五島盛光子爵となる 堀田正養子爵の娘善子と結婚
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◆溝口直正
1855-1919
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■妻 大溝藩主分部光貞の娘 久爾子
1858-1915 
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●直亮  次代当主
●直介  財閥大倉家の養子になり大倉直介となる
●利男  前田利同伯爵の娘鞍子の婿養子になり前田利男伯爵となる
●久美子 財閥大倉喜七郎男爵夫人
●辰男
●正理  増山正理となる
●三郎
●末子  小林太郎夫人
●正夫  片山正夫となる
●義夫  片山義夫となる


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萬朝報 明治31年07月24日

伯爵溝口直正は芝区田町大滝政吉同居タケを妾とし寵愛ひとかたならざるため、
夫人久爾子(41)はほとんど幽閉の姿にて
徒然のあまりしきりに弄花〔花札〕の相手を求めつつあり。

また別の妾小関アサは、目下その親元なる荏原郡大森村にあり。

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●直介  財閥大倉家の養子になり大倉直介となる
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◆溝口直亮
1878-1951
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■妻 田安徳川達孝伯爵の娘 須美子
1888- 
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●歌子
●豊子
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by oMUGIo | 2004-07-04 00:00 | 武家華族

相馬子爵家 中村藩 その3

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≪相馬事件≫

※当時の総理大臣の年給は1万2000円である。

相馬事件は、明治10年から明治27年まで18年にも渡るお家騒動だった。
大筋を述べると、相馬家の当主誠胤が精神病となってしまっため、
前当主である父親充胤が誠胤を座敷牢に監禁した。
しかし誠胤は狂人であるという家臣と誠胤は狂人ではないという家臣とが対立し、
訴訟に次ぐ訴訟となった。
さらに途中で誠胤が急死したため、今度は狂人ではない派は毒殺されたのではないかと疑い、
またも訴訟に次ぐ訴訟となった。
どちらも多くの専門家が診断に関わったが、
結局精神病については精神病だが監禁は不要だったのではということで黒に近いグレー、
毒殺についてはその痕跡はまったくナシということでシロ、という結論で終わった。
しかし18年もかかったから登場人物が多いのか、登場人物が多かったから18年もかかったのか、
とにかく多数の有名人が絡んだ事件であった。


<誠胤、監禁される>
中村藩主相馬充胤には側室に生ませた誠胤と別の側室に生ませた順胤とがいた。
充胤が隠居して誠胤が当主となり、松本藩主戸田光則の娘京子と結婚する。
ところが明治10年26歳の頃から誠胤に精神病の兆候が現れる。
家来を槍で刺そうとしたり、妻を刀で切ろうとしたり、切腹の真似をしてみたり、
周囲に暴力を爆発させるようになる。
そこで父充胤は明治12年宮内省の許可を得て東京本邸の座敷牢に誠胤を監禁して、
東京府立癲狂院および帝国大学第一医院の医師の治療を受けさせることにした。

この処置に反主流派の家臣が疑念を持つ。
「正常な誠胤を当主の座から引きずり下ろして異母弟順胤を新当主にするために
側室や取り巻きが謀った陰謀ではないか」
さらには「誠胤の結婚も最初美しい姉の方と見合わせておいて
実際には不器量で不妊の妹京子とすり替えた。
これも世継ぎを作らせない陰謀だ」とエスカレートする。
(これは京子や実家の戸田家に失礼じゃないのか?)

反主流派から立ち上がったのは下級武士だった錦織剛清、
迎え撃つ主流派家臣は相馬家の家令を務める志賀直道(作家志賀直哉の祖父)。
明治維新のゴタゴタを挟んで相馬家の財政を立て直し、
小藩ながらも資産数百万円の資産家に育てた功労者である。

錦織は明治16年相馬家に押しかけて、
・誠胤の監禁を解くこと
・誠胤と京子を離婚させること
・誠胤に新しい妻を迎えること
などを要求する。もちろん相馬家は相手にしない。
錦織は何度も相馬家に押しかけ、何度も警察に捕まった。


<錦織、ねばる>
錦織は支持者を求めて、
東久世通禧伯爵・山岡鉄太郎子爵・香川敬三伯爵・岩倉具視公爵などに面会する。
そしてついに医師であり内務省衛生局長であった後藤新平伯爵の支持を得る。
医療官僚である後藤は、精神病者の人権問題としてこれを問題視した。
『家令志賀直道らは私欲の一点に走り、誠胤の権利滅却し去りてその財産を承由し、
一家を儘にせんとするものの如し。この後は警視よりいっそう御立入願い、
かつ医官は断然誠胤の妻の陰部検査を行い、先天的不具にそうろう時は
諸般の悪計露見の端を開きそうろうことは、相叶まじきものと御座候』 (ひでえ)

明治17年後藤は警視庁に働きかけて、
警視庁医務所長長谷川泰と東京府立癲狂病院院長中井常次郎に誠胤を診察させる。
診察の結果、監禁までは不要との診断が下りる。
これを受けて錦織は相馬家に向かい、誠胤と面会しようとする。
しかし対応に出た次代当主順胤から面会を断られた錦織は激怒、
順胤を始め周囲の家臣たちを突き飛ばして座敷牢に突進した。
錦織は逮捕され、相馬家は誠胤を東京府立癲狂病院に入院させる。
刑務所から出た錦織はさっそく病院に忍び込み、また逮捕される。


<錦織、誠胤を奪還する>
明治20年01月30日、再度錦織は病院に忍び込み誠胤を奪還に成功する。
錦織は誠胤を連れて後藤新平宅に逃げ込む。
誠胤を診断した後藤は、精神病ではあるが監禁するほど重症ではないと判断する。
しかし錦織と誠胤は警察に保護される。
02月19日、父充胤が心労のため血を吐いて死亡する。
03月09日、当主代理となった順胤は親族会議を開く。
・医科大学第一病院で誠胤を診断させる
・浅野長勲侯爵を誠胤の後見人とする
ことが決まる。
04月19日、榊俶やベルツらが診断を下す。
「誠胤は精神病家の血統に属し、26歳の時より発病し今なお精神病であり、時発性躁暴狂」
としながらも自宅療養を指示する。
これを受けて相馬家は誠胤を退院させ自宅療養させる。
一時は症状も軽くなり、明治22年には側室との間に男子秀胤も生まれる。


<錦織、誠胤の縁談を画策する>
このあたりで満足しておけばいいものを、錦織は誠胤に素晴らしい嫁を迎えようとする。
懸案の妻京子は明治17年に亡くなっていた。
錦織が狙ったのは久邇宮家の女王である。久邇宮家も乗り気で話はまとまる。
しかし後は宮内省に願書を提出するだけという段階になっても、
後見人浅野長勲侯爵は捺印を拒んだ。
宮家の女王に精神病の婿を与えるということは不敬であるとの考えからである。

錦織は明治22年に浅野に対して、
・誠胤は全快しているので後見人を辞めること
・久邇宮家女王の降嫁に尽力すること
・家臣を一新すること
などを要求する。もちろん浅野・相馬家は相手にしない。


<誠胤、急死する>
明治25年01月、錦織は家政奪還を目指して相馬家親族を告訴する。
ところが02月22日、誠胤が急死する。
当然錦織は毒殺を疑う。相馬事件第2ラウンドの始まりである。 
錦織は再度後藤新平に泣きつく。
後藤は死んだ誠胤の毒殺をうんぬんするより、
誠胤の遺児秀胤を相馬家から奪還して育てた方が有意義だと提案する。
明治26年、後藤と錦織は相馬家へ行って秀胤を奪還しようとするが、
当然それは誘拐にあたるとして警察から退けられる。
07月、錦織は誠胤毒殺容疑で相馬家親族を告訴する。
これに対して相馬家は、弁護士星亨に依頼して錦織を誣告罪で告訴する。
警察の事情聴取を受けた者は65人。華族・政府高官が多数含まれていた。


<とばっちりを受けた人々>
東京帝大精神科教授で相馬家の主治医であった榊俶は証人として出廷したが、
毒殺魔であるという疑いをかけられてしまう。
榊の実母が嫁に毒殺されかけたと証言したのである。
とすればその毒物は榊が渡した物ということになり、
今回の誠胤の死亡事件に関しても毒物を相馬家に渡したのではないかという理屈である。
結局これは榊家の嫁姑問題から年老いて疑り深くなった母親の勘違いだと明らかになるが、
榊俶は毒殺魔の疑いはかけられるわ、家庭内のいざこざはバレるわで、大迷惑を受けた。


<決着>
明治26年08月28日、裁判所は保管されていた誠胤の血液検査を命じる。
血液から毒物は発見されなかった。
続いて09月08日、死後1年半の遺体が掘り起こされて司法解剖された。
内臓などの一部を切り取り鑑定されたが、毒物は発見されなかった。
これを受けて10月23日錦織が逮捕され、11月16日後藤新平が逮捕される。
翌明治27年05月、錦織に実刑4年、後藤は証拠不十分で無罪となる。

その後相馬家はさらに資産を増やし、
大正期には300万円、昭和期には400万円の資産家華族になる。
後藤新平は政治家として大成するが、
錦織は相馬家に関係することはなく大正10年66歳で死亡した。
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左から 後藤新平 今村秀栄 錦織剛清
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by oMUGIo | 2004-07-03 00:00 | 武家華族

相馬子爵家 中村藩 その2

●側室の子 誠胤 次代当主
●生母不明 義理 佐竹義理子爵となる 佐竹義堯侯爵の娘鐶子と結婚
●側室の子 順胤 次々代当主
●生母不明 花子 有馬純文子爵夫人
●生母不明 女子 相馬胤紹夫人


●義理 佐竹義理子爵となる 佐竹義堯侯爵の娘鐶子と結婚
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●孟胤 次代当主
●元子 青山忠允子爵夫人
●広胤
●正胤
●沢子 伊東二郎子爵夫人


●元子 青山忠允子爵夫人
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●沢子 伊東二郎子爵夫人
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by oMUGIo | 2004-07-02 00:00 | 武家華族

相馬子爵家 中村藩 その1

◆相馬充胤
1819-1887 文政02-明治20 68歳没


■最初の妻 大和郡山藩主柳沢保泰の娘


■2番目の妻 守山藩主松平頼升の娘


■3番目の妻 掛川藩主太田資始の娘


●側室の子 誠胤 次代当主
●生母不明 義理 佐竹義理子爵となる 佐竹義堯侯爵の娘鐶子と結婚
●側室の子 順胤 次々代当主
●生母不明 花子 有馬純文子爵夫人
●生母不明 女子 相馬胤紹夫人





◆相馬誠胤
1852-1892 嘉永05-明治25 40歳没
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■妻 松本藩主戸田光則の娘 京子
1830-1901 天保01-明治34 71歳没


●庶子 秀胤 織田信敏子爵の娘栄子の婿養子になり織田信恒子爵となる
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◆相馬順胤
1863-1919 文久03-大正08 56歳没
先代誠胤の弟
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■妻 丸岡藩主有馬道純の娘 硯子
1873- 明治06-
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●孟胤 次代当主
●元子 青山忠允子爵夫人
●広胤
●正胤
●沢子 伊東二郎子爵夫人


立つ左から 正胤 孟胤 広胤
座る左から 元子 順胤 沢子 硯子夫人  
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◆相馬孟胤
1889-1936
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■妻 土浦藩主土屋拳直の娘 邦子
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●恵胤 次代当主
●彪胤
●甫胤
●豊胤


立つ左から 甫胤 恵胤 彪胤 豊胤
座る左から 恵胤夫人雪香 順胤夫人硯子 孟胤夫人邦子 彪胤夫人多賀子
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◆相馬恵胤
1913-1994 大正02-平成06 81歳没
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■妻 政治家尾崎行雄の娘 雪香
1912-2008 大正01-平成20 96歳没
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●和胤 次代当主





◆相馬和胤
1940-

■妻 財閥麻生太賀吉の娘 雪子
1944-
総理大臣吉田茂の孫・総理大臣麻生太郎の妹・三笠宮寬仁親王妃信子の姉
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●和香子
●行胤
●陽胤
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by oMUGIo | 2004-07-01 00:00 | 武家華族

瀧脇子爵家 小島藩主

◆滝脇信広
1865-1913
もと伊達宗城伯爵の子


■前妻 遠江相良藩主田沼意尊の娘 智恵 離婚
1867-


■後妻 宮崎利央の娘 鏞子
1870-1941


●信鑰
●基子 金光文孝夫人





◆滝脇信鑰
1893-





◆滝脇宏光
1888-1964
もと古市公威男爵の子


■前妻 実業家田口義三郎の娘 久子 自殺
1896-1934


■後妻 越石権三郎の娘 アキ
1904-1973


●前妻の子 芳子
●前妻の子 光子  南平次夫人
●前妻の子 タキ  野崎道朗夫人
●前妻の子 ヒロコ 鍵谷武雄夫人





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<滝脇宏光による妻殺害疑惑>

当主として養子になった滝脇宏光は官僚出身の実業家であったが、相当借金を抱えていた。
昭和09年09月05日、宏光は家庭不和を理由に宮内省に離婚願いを提出する。
10日後、妻久子がカルモチン自殺で死亡、
宏光は自殺の事実を伏せて心臓麻痺という診断書を書いてもらう。

しかし久子の父田口義三郎がこれに不審を抱き、娘の死因の究明を宮内省に願い出る。
そのあいだ宏光は借金返済の件で訴えられる。
宮内省は離婚問題以外にも宏光の良からぬ噂をつかんでいたが結局証明できず、
すべてはうやむやになった。

宏光はその後再婚する。
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by oMUGIo | 2004-06-20 00:00 | 武家華族

宗伯爵家 対馬藩主

◆宗義和
1818-1890


■妻 広島藩主浅野斉賢の娘 嘉代
1822-1890


●重正 次代当主
●和徳 原和徳となる
●和豊 井上和豊となる
●和志 久留里藩主黒田直和の娘鏻子の婿養子になり黒田和志子爵となる
●植子 亀山藩主松平信正の後妻
●和一 佐賀和一となる
●定  仁位定となる
●和子 九条道孝公爵夫人
●和東 杉村和東となる
●宝子 公家難波宗礼の後妻





◆宗重正
1847-1902


■妻 蓮池藩主鍋島直与の娘 綱子
1851-1891 


●重望 次代当主
●全子 松平武修子爵の前妻
●績子 酒井忠道伯爵の後妻
●正誼 氏家正誼となる





◆宗重望●子供ナシ
1867-1923
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■妻 松園尚嘉男爵の娘 尚子
1873-1923 
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◆宗武志
1908-1985
もと黒田和志子爵の子
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■前妻 大韓帝国初代皇帝高宗の娘 李徳恵 李垠王の妹 離婚
1912-1989
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韓国にて   左 義姉方子   右 徳恵
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■後妻 勝村繁の娘 欣永
1931-


●前妻の子 正恵 行方不明のまま死亡認定
●後妻の子 立人
●後妻の子 和木
●後妻の子 中正


●正恵 

*23歳の時に大学時代に知り合った26歳の中学の英語教師の男性と恋愛結婚したが、
翌年遺書を残して失踪、生死不明のまま死亡と認定された。
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徳恵の義姉 李方子 梨本宮守正王の娘/李垠王妃

夏休みには私が付き添って伊香保に避暑されていましたが、
秋になって学校が始まっても、行きたくないと終日床につかれて食事にも出ようとされません。
夜は強度の不眠症で、時には突然外に飛び出され、
驚いてお探しすると裏門から赤坂見附の方へ歩いておられたりということもあったので、
ただごとではないと精神科の先生に来診をお願いし、
看護婦もお付きして当分は大磯の別荘で静養されることになりました。

もともと内気な方だったとはいえ、私などには明るく希望に満ちたお話しぶりで、
将来は学校の先生になって、と ご利発なお言葉を頼もしく伺っていたのに、
今は鬱々として床についておられるばかりなのです。
「早く元気におなり遊ばして・・・」
とベッドの枕辺にひざまづいて幾度となく涙を流してお話ししましたが、
受け答えもなく、ついに早発性痴呆症と診断されました

ところが昭和06年を迎えて徳恵様はだいぶ落ち着かれ、
お食事も進んでお話しも少しは調子良く話されるようになったため、
宗伯爵との御縁談も順調に進んで05月08日には御結婚式が挙げられることになりました。

この日の早いことを誰よりも望んでいた殿下〔李垠王〕と私であったとはいえ、
また小康を得られたとはいいながら白い洋装のお姿が何かしらおいたわしい思いがして、
そっと涙をぬぐったことでした。
再発への心配と、朝鮮の血を無理矢理日本の血の中へ同化させてしまおうとする
当局の意図への反発も、秘かに感じていた私でした。


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宗武志の教育係であった平山為太郎の日記 昭和06年11月03日

午前10時、伯爵〔宗武志〕に伺候し、古森氏・斎藤家令・伯爵と4人、
絵画の談および蘭の培養等につき長時間談話をなす。
その時に徳恵夫人も突然来席あり。
挨拶を述べしも、一言の言葉なく答礼ありしのみ。
そして絶えず声を出して失笑せらるること数次、真に病的の挙動なり
伯爵の御胸中 果たして如何、嘆息の至りなり。
 

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昭和13年から昭和15年まで宗伯爵家に勤めた中村国枝の証言

*対馬の小学校時代、宗武志の担任を務めた米田隆太の娘
その縁で女学校卒業後、上京して宗伯爵家に勤める

私は正恵さんのお勉強やお遊びのお相手をするのが第一の仕事で、
他にお掃除や縫い物などもいたしました。
正恵さんは当時小学校の1年ぐらいでしたが、細くて弱い体のお子さんで、
御養生のために湯河原の温泉へお供したこともあります。
学習院の送り迎えにもお供いたしました。
父兄会に私が代理で出席したこともありました。

当時の宗家には十数人の人が働いていたでしょうか。
私達は御当主を【伯爵様】とお呼びし、徳恵様のことを【御前様】とお呼びしていました。
伯爵様は週に何回かは千葉の方へ講義にお出かけで、遠いので夜遅くなられることもありました。
広い洋間の書斎があって、よく書き物などをしておられました。
伯爵様がお風呂に入って大きなお声で『この道』を歌っておられたのを覚えています。
とてもいいお声でした。
一度、伯爵様とピンポンをしたことがありましたが、あれは応接間だったかしら・・・。

徳恵様のお世話はミヨさんと和田さんの二人が主にしていました。
お召し物は洋服のことも和服のこともありました。
具合の良くない時、御寝巻にガウンをかえけたお姿も多かったようです。
お身体の華奢な、手も本当にほっそりとしてきれいな方でした。
時々2階から、誰も相手がいないのに笑う声が聞こえることもありました
時たま2階から正恵さんの部屋に降りてきて、椅子にじっと座っていらっしゃることもありました。
そんな時 何もおっしゃらないのですが、
お名前をお尋ねすると漢字で「徳恵」とお書きになります。
「お子様は何とおっしゃいますか」と聞くと「正恵」とお書きになりました。

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1908年 明治41
宗武志 誕生


1912年 大正01
徳恵 誕生


1919年 大正08 徳恵07歳
徳恵 父死去


1925年 大正14 徳恵13歳 
徳恵 来日


1929年 昭和04 徳恵17歳  
徳恵 母死去


1930年 昭和05 武志22歳 徳恵18歳 
李垠・方子・徳恵 完成した李王家新邸へ転居 
「早発性痴呆症」と診断される
武志と徳恵 初対面


1931年 昭和06 武志23歳 徳恵19歳 
武志と徳恵 結婚


1932年 昭和07 武志24歳 徳恵20歳 
正恵 誕生


1946年 昭和21 武志38歳 徳恵34歳 正恵14 
徳恵 入院


1955年 昭和30 武志47歳 徳恵43歳 正恵23歳 
正恵 結婚
武志と徳恵 離婚
武志 再婚


1956年 昭和31 武志48歳 徳恵43歳 正恵24歳 
正恵 失踪、生死不明のまま死亡認定


1962年 昭和37 武志54歳 徳恵50歳 
徳恵 帰国


1985年 昭和60 武志 死去 77歳


1989年 平成01 徳恵 死去 76歳

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by oMUGIo | 2004-06-19 00:00 | 武家華族


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