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東京本邸 麹町区富士見町 (現:千代田区富士見町) 敷地5,500坪
![]() ![]() 鎌倉別邸 ◆山階宮晃親王 1816-1898 文化13-明治31 81歳没 もと伏見宮邦家親王の子 ![]() ![]() ■妻帯せず ★側室 中条千枝子 ![]() ●千枝子の子 菊麿王 次代当主 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 2歳年下の叔母にあたる伏見宮貞敬親王の第11王女幾佐宮隆子女王と駆け落ちして 伏見宮から除籍される。後に許されて山階宮を創設する。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 曾孫 筑波常治 女の道にかけては大家だったということです。門跡の身でありながら駆け落ちをやらかす。 高野山目指して登って行ったらしい。途中で捕まったんですね。 時あたかも天皇だかその身内だかの御不例の最中で、東寺に謹慎になっちゃった。 でも少しもジッとしていない。 天下の情勢について抱負経綸を持っていたらしくて、志士が盛んに出入りした。 新左翼を煽っている造反教官というところですな。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: ◆山階宮菊麿王 1873-1908 明治06-明治41 35歳没 ![]() ![]() ■前妻 九条道孝公爵の娘 範子 妹は貞明皇后 1878-1901 明治11-明治34 22歳没 ![]() ![]() ![]() ![]() ■後妻 島津忠義公爵の娘 常子 妹は久邇宮俔子妃 1874-1938 明治07-昭和13 64歳没 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ●前妻の子 武彦王 次代当主 ●前妻の子 芳麿王 山階芳麿侯爵となる 酒井忠道伯爵の娘寿賀子と結婚 ●前妻の子 安子女王 浅野長武侯爵の後妻となる ●後妻の子 藤麿王 筑波藤麿侯爵となる 毛利高範子爵の娘喜代子と死別・肥田和三郎の娘貞子と再婚 ●後妻の子 萩麿王 鹿島萩麿伯爵となる 早逝 ●後妻の子 茂麿王 葛城茂麿伯爵となる 細川護立侯爵の娘敏子の前夫・本人死別 ◆山階宮武彦王●子供ナシ 1898-1987 明治31-昭和62 89歳没 *妻と死別した頃から武彦王は精神を病み、亡くなるまで入退院を繰り返した。 後妻として梨本宮規子女王と婚約したが、発狂を理由に破談となる。 ![]() ![]() ![]() ■妻 賀陽宮邦憲王の娘 佐紀子女王 死別 1903-1923 明治36-大正12 20歳没 *佐紀子妃は初めての子供を妊娠中に鎌倉の別邸で関東大震災に遭い圧死。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: <武彦王と梨本宮規子妃との縁談> 枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正13年04月08日 賀陽宮好子妃の台詞 (佐紀子妃の母親、佐紀子妃死亡後の台詞) 皇族の内情には面白からざること多し。 武彦王より梨本宮規子女王の書状を受け取りたる事を話されたる事あり。 これは山階宮常子妃より規子女王との結婚を促進する事を望まれたるものに相違なし。 規子女王の書状を届くる事を梨本宮伊都子妃より依頼せられたる事もあり。 外国にてはこの如き事あるやも知らざれども、実に極端なる事なり。 武彦王は自分に「規子女王が意ある様なり」と言わるるにつき、 「なぜ初めより規子女王と婚せざりしや」と言いたるに、 「初めは意ある事を知らざりし」と言いたり。実に驚きたる事なり。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: <武彦王と梨本宮規子妃との縁談> 倉富日記 大正13年09月16日 賀陽宮好子妃の台詞 武彦王は規子女王を娶りたき旨、 梨本宮家に申し込まれず宮内大臣に申し込まれたる趣。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: <武彦王と梨本宮規子妃との縁談> 倉富日記 大正13年10月01日 山階宮家宮務監督大石正吉&宮内次官関屋貞三郎の会話 大石◆武彦王は規子女王を娶らるる意あり。宮内大臣牧野伸顕は 「規子女王の性質につき懸念あるにつき、更に他の人を詮索してみるべき」旨を大石に申し聞け、 大石は賀陽宮好子妃の意向を伺いたるところ、 好子妃は「規子女王にてよろしからん」と言われたり。 しかし牧野よりの談あるにつき、これより第二の候補者を探してみるべし。 ただし武彦王が考えを変えらるるほどの候補者を得る事は難しからんと思う。 関屋◆第二候補者を探すにしても、梨本宮家に分からざる様に為す必要あり。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 倉富日記 大正13年12月12日 東久邇宮付事務官金井四郎の台詞 賀陽宮好子妃は武彦王についてはよほど不満なる様にてその口気を漏らされたり。 「規子女王が嫁せらるるが都合良く行くべきや」と言わるるにつき、 自分は「都合良く行くならん」と言いたるに、「何故なるや」と言わるるにつき、 「佐紀子女王は極めて温順なる方なりしが規子女王は言わばお転婆の方なり。 性行の等しき方ならば前妃と比較して見劣りのする事あれども、 性行があまり異なりおるゆえ比較する所なくかえってよろしからん」と言いたるに、 好子妃は「しかるべきか」と言われたり。 武彦王は結婚後1年ばかりは非常に親密なりしも、 その後に既に佐紀子女王にも飽きが生じおりたる趣なり。 ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
by oMUGIo
| 2001-04-03 00:00
| 皇族
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